小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(16)

小樽の葛藤
石井 伸和


木曽妻籠宿
木曽妻籠宿

保存再生の機運
「運河と倉庫群の景観は、全国に例がない貴重な文化財」という守る会の主張は、昭和53年6月のシンポジウムで、観光資源保護財団・京大名誉教授西山夘三氏をして保証されたが、すでに「集落」「街並み」を計画的に保護していこうという機運は、昭和40年代から高まっていた。木曽妻籠宿や飛騨高山、金沢、倉敷などで、地域住民と自治体が手を携えて保存運動に成果を上げてきた。
 このように全国的に展開しようとする機運の中で、しかも官民手を携えてという事例が功を奏する鍵であることまで確認できる時期、小樽市の決断により、全国的に知られた旧小樽新聞社屋や旧手宮駅官舎など、市民の強い保存要望にも耳を貸すことなく、札幌への移築やスクラップという運命をたどった。
 まして、稲垣前市長は「運河と石蔵ではメシは食い上げだ。道道臨港線こそ小樽百年の計だ」とまで言っている。
<北海道新聞 昭和53年7月16日社説参照>
 これに対して、文化庁は「小樽市から要望があれば本格的に調査する助成の準備がある」といい、松村貞次郎東大教授は「小樽運河とその周辺の歴史的建造物群は神戸・長崎とともに日本近代史の三大景観の一つ」という太鼓判まで押されていた。
<小樽運河を守る会運河ニュースNo.10 昭和53年8月28日>
 つまり、高度経済成長に乗り遅れた焦燥感が、小樽市や経済界のリーダーをして道路建設という公共事業誘致にすがる呈をなし、地域の貴重な財産に気が付かず、したがって守る会からの議論の提案に対し、「都市計画変更は行政の根幹に関わる」という志村市長の立場論が障壁となって、理性的な話し合いができないまま運河論争は展開していく。「運河論争」より「運河問題」といった方が正しい。話し合いができないところにこそ問題があったからだ。

焦燥感
 昭和50年代の小樽の経済界や行政には事実、焦燥感があった。
 小樽の現代史を振り返ると、昭和20年前後を境にして、過去に誇った小樽繁栄の全ての条件は雲散霧消した。戦前の統制経済により政治(軍事)が経済を統制し、金属類の供出奨励や一県一行(一県に銀行は一つ)政策、あるいは企業の統合政策により、経済の街小樽に大きな制限が加えられた。また大正後期から鰊の回遊が不安定になり、昭和30年以後は皆無となったばかりか、中国からの大豆粕輸入により鰊の肥料価値も低下した。くわえて昭和30〜40年代には石炭が石油に代わり、石炭積出港の機能が膠着。ついには敗戦によって南樺太はソ連に割譲され、小樽商人の版図は大きく縮小した。
 こういう小樽の状態を尻目に日本は高度経済成長を猛進するのだが、茫然自失状態で小樽はこれに与することができず、オマケに高度経済成長をバネに陸路や空路が整備され、小樽が誇っていた海路の玄関口である港の利用率も低下していく。しかし既に都市基盤が整備されていたことから、昭和39年まで人口は増加しピークの20万7千人に至ったことが唯一の救いだった。とはいえ経済発展の要素がなければ人口は流出する一方で、マスコミはこんな小樽を「斜陽」と言い放つ。だから焦った。
 かつての小樽商人の隆盛は中央とのパイプが命綱であったことは前述したが、この力学がまるで慣性の法則のように作用し、さらに焦燥感をかきたてた。だから当時、北海道と沖縄に優遇されていた公共事業を誘致する政経一体の戦術にすがるしかなく、そこに道道臨港線建設工事が浮上する。これを逃せば千載一遇のチャンスをみすみす放棄してしまうような認識が根を張った。
 よってそういう認識を持った人々からみると、運河保存運動などは「どこの馬の骨とも知らぬ輩が何を騒いでるんだ」としか映らない。「俺達は小樽の経済を考えて行動してるんだ。経済の苦労もわからずにゴチャゴチャ言うな」と思うのも当然。さらに輪を掛けて「そんなに運河を守りたかったら、お前ら自身が金を投じてみろ!」と憤慨する人もいた。
 簡単にいうなら、過去の時代を後追いする小樽の人々と、新たな時代を創ろうとする小樽の人々との対立といえる。仮に円卓テーブルが用意されたにせよ、この対立は恐らく埋まったかどうか。いずれにせよ、後追い陣は既成手続きに躍起になり、時代創造陣は様々な分野に新風の吹き込む窓口をこじあけていく作業に躍起になっていく。

創造観
「そんなに運河を守りたかったら、お前ら自身が金を投じてみろ!」といわれれば、「そんなに公共事業にすがりたければ、お前ら自身が金を投じて工事したらいい」と論陣を張る者もいた。が、さすがにこんなイタチごっこは長続きはしない。そもそもそんなイタチごっこなら、双方が金を出す公共に依存している証になり、同じ穴のムジナだ。いわば公共事業を追う立場と、公共事業のありようを問う立場の違いのケジメが必要だった。
 歴史に背中を押されると焦るが、歴史を振り返ると不思議な現象が見えてくる。
 事実も史実もかつての小樽は大繁栄した。その結果として小樽には数多くの瀟洒な建物が建てられた。それらが年月を経て「歴史的建造物」と再評価されるまで、不思議な現象がおきているのだ。偶然にも戦災を免れ、それらは残る。そして次に高度経済成長の鉄則であるスクラップ&ビルドの洗礼を受けなかったから、ここでもそれらは残る。ついには運河保存運動を契機に「歴史的建造物を守って再生させよう」という小樽独自の運動が勃発し、この段階でそれらは「歴史的建造物」というレッテルが貼られる。まるで相撲でいう土俵際の「残った残った」の歴史的アクロバットをくぐり抜けてきたかのように、それら、いや歴史的建造物は現存するのだ。そしてこれよりわずかな後年、これらの歴史的建造物を保存再生させる「小樽モデル」が、「小樽へ行ってみよう」という観光ビジター達の動機になるのだ。だがこの時期の段階では、唯一質屋の石蔵を喫茶店にした「叫児楼」、煉瓦蔵を劇場とパブにした「海猫屋」、商店蔵をライブハウスにした「メリーズフィッシュマーケット」があるにしか過ぎないし、これが「小樽モデル」といわれる小樽観光の核になるなんて、誰も想像だにしていない。
 ただ運河はもちろん、市内のあちこちに現存する歴史的建造物という存在に対し、「歴史的アクロバットをくぐり抜けてきた街の宝だ」という創造観をかきたてていたことはまちがいない。だから既存の経済人が焦燥感を抱いたのに対し、我々は創造観を抱き、歴史的建造物再生は歴史への感謝に報いる未来への黙示録になっていた。
 そして実際にこれらの再生スポットには多くの若者が集まっていた。ホテルのラウンジや高層ビルのレストランを出し抜いてである。歴史的建造物の再生には確実にニーズがあるという実感を若者は抱いた。こういう需要を満たす供給は小樽には山ほどあり、未然ではあるが、ひとつひとつ再生させるなら、駒木定正氏がいう「小樽は屋根のない博物館」というように、小樽は街全体がアミューズメント都市になるではないかという新たなビジョンまで描かれていくのである。
 この創造観の展望には、既存の経済人が気付こうともしない新たな経済観も込められていることを、我々は潜在的に感じていた。

昭和51年再生 海猫屋(旧磯野商店)
昭和51年再生 海猫屋(旧磯野商店)

昭和61年再生 さかい家(旧久保商店)
昭和61年再生 さかい家(旧久保商店)