小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(18)

小川原 格 登壇
石井 伸和


昭和50年代の小樽運河
昭和50年代の小樽運河

夢街副会長 小川原 格
 昭和53年秋に小樽夢の街づくり実行委員会は発足し、会長に佐々木興次郎、副会長に小川原格を立てた。
 格さん(小川原)は、昭和52年に当時北大大学院生の木原淑夫氏の声掛けで『読書新聞』に「歴史的環境保存からの決別」という挑発的題名の投稿をしていた。
 その内容は、一般通念上「保存」というと博物館的保存しか意味しない中で、凍結保存から動的保存(再活用)への転換を主張するものだった。
 これが当時北大大学院生の石塚氏や柳田氏の目にとまり、彼らは格さんに会うことになる。
 なぜなら彼らの研究対象の運河保存がこの再生保存であるべきという考え方に合致していたからにほかならず、彼らが主催した昭和51年大國屋デパートの「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」はその考え方で描かれていた。
 格さんは芝浦工業大学では建築工学科に在籍していたこともあり、歴史的環境・歴史的建造物の保全と再活用をテコに観光を切り口とした小樽経済の復興を展望するまちづくり市民運動展開を考えていた。
 いっぽう格さんらの全共闘運動は、ベトナム反戦や沖縄本土復帰など政治闘争に主眼を置いていたように見られがちだが、戦闘的街頭デモだけが学生運動ではなかった。学生自らが依って立つ『場』=大学が、40名の定員に120名をすし詰めにし、体育会系学生を学生支配装置にする旧態依然の経営体質の大学当局に立ち向かい要求を勝ち取る一方、学生の生活防衛・福利厚生の向上を自立した運動として展開する大学生協運動にも格さんは参加していた。
 そして芝浦工大の自治会・生協・教授会を動かし、普通の学生を組織し学生運動不毛の大学で運動をゼロから進めた。目を凝らしてみると、工業大学でほぼすべての学生が購入する製図道具を大学は極めて高価に売りつけて学費に加え二重三重の利益をあげており、学生生活を守るために存在している大学生協が存在理由を喪失しているとメーカーに直接交渉に赴き、はるかに安価な販売ルートを開くのに成功し、都内の単科大学で一番の売上をあげる大学生協に発展させた。
 こうして生活に関わった運動をしてきた格さんは、小樽運河を守る会の陳情や署名集めという要望運動から脱しない運動手法に疑問を感じ、市民を味方に引き込んだ市民運動を展望した。
 だから石塚や木原との交流は、双方にとってドラスティックな出会いであった。
 さらに格さんは「夢街」には資金作りのための「小樽歴史的建造物番付」なるポスターづくりを提案し、彼が学生時代のアジビラやプラカード書きなどで修得した相撲文字でその版下を作成、シルクスクリーンで山さんが印刷し、市内で販売し運動資金的基盤をつくった。

小川原 格のシナリオ
 たった1回の開催で全国的に有名になったポートフェスティバルは、まさに格さんが目指した新たな「まちづくり」市民運動だった。格さんのシナリオは、小樽市民を身方につけ、そこから市民ひとりひとりが自らの町の都市像を抱き、次にその都市像を促進する経済構造に転換していく、というものである。
 ポートは運河という「場」を使った市民へのプレゼンテーション、ポスター販売は財政基盤の確立、夢街はポートの中心軸の議論の場、運河研究講座はまちづくりの理論武装、ミニコミ誌「ふぃえすた小樽」は情報発信ツール、そんな陣容のシナリオが現実に実施されていく。
 その牽引役は、誰もが人格的に尊敬する興次郎を委員長、山さんはビジョンを発信し旗を振る書記長、、そして格さん自らは財政や人間関係を円滑にする事務局長役と定め、格さん大戦略は、石塚・柳田・木原や駒木定正氏らグループの都市計画を当てはめていた。

昭和50年代の小樽運河
昭和50年代の小樽運河
第2回ポートフェスティバル実行委員長
 昭和54年、第2回目のポート開催に向けての準備に入ったとき、この実行委員長にうってつけの格さんが推された。格さんとしても、せっかく市民とのパイプができたポートを今後、小樽の実社会で変革の核心にしようと考え、その裏方作業が大事だと考えていた。それには、生粋の小樽人で保守層に根ざした父を持ち、小樽で商売をしている自分に白羽の矢が立つことは覚悟していた。

昭和50年代の小樽運河
昭和50年代の小樽運河
露天商との交渉
 ポートという海のものとも山のものとものともつかない第1回目には、山さんがひとりで交渉に出向いたテキ屋組合の両國秋川親分のところに、今度は格さんも同行した。
 格さんの腹は「市民手づくりの祭りだから遠慮願う」ことだったが、いきなり「ポートはもうビッグイベントとなりテキ屋は当然参加する」という対立構造になってしまった。
 このころのヤクザ世界は、三代目 田岡一雄率いる山口組が全国制覇を着々と進めていた時期に当たり、警察では通称「マルボウ」という捜査第四課、つまり暴力団対策課が目を光らせはじめていた。それはヤクザ同士の抗争に一般市民が巻き込まれる事件が多発していたことによる。これより12年後に暴対法が制定され取締は強化されるが、この時期はまだその助走段階で、プロの露天商が市民のフリーマーケット的なイベントに参加するしないの境目がなかった。
 だから当然、小樽を仕切っていた秋川親分にとっても「小樽であんな派手な祭りがあるのに、それに絡んでなければと他のテキ屋への面子が立たない」事情が生まれた。
 もちろん格さんのことである。当然、警察のマルボウとも交渉していた。マルボウはテキヤ排除のモデルを求めていたことから、積極的な関与の姿勢を示す。
 とはいえ格さんもまた何の交渉もしないうちからマルボウに丸投げするのも面子に関わると考えていた節がある。
 格さんのオトシドコロは、「それなら、出店エリアの角にのみテキ屋の出店を認める。ただしいかにもテキ屋らしいスタイルは遠慮願う」ということだった。
 しかし、交渉を有利に運ぼうと両国一家の若い衆たちが、こぞって籔半に押しかけ、客へのガントバシやイヤガラセを毎日しにくる日々が続いたという。
 格さんもそれに我慢を重ね、結局秋川親分も一回目に無視した経緯があり、このオトシドコロに乗らざるをえなかった。
 格さんはそんな秋川親分への義理を通して、その後数年ポートの時期には秋川親分に生蕎麦を届けた。

政治背景に対する衣
 運河問題を語ることがタブーであった小樽で、明るく夢を持って語れる話題にしたポートに、嫌悪感を抱いた人々も数多くいたことは前回書いた。守る会の隠れ蓑、アカの残党などというオヒレハヒレの噂もかなり出回った。そこで格さんは「衣」を着ることを実行委員に提案する。
「運河を保存再生させる目標はあっても、あくまでもポートという衣装を纏う」
「つまりポートとは、市民の目に見える選択のチャンネルを提供する中立の装置なのだ」
「本来こんなことは市がやるべきであって、それを名も無き若者がやるんだ」
「方向を決めるのは市でも俺達でもなく市民なのだ」
「これこそが主権在民の市民が登場する舞台だ」
 いわば相撲の番付の勧進元という位置づけであり、投票するのは観衆であり視聴者という考え方である。この正々堂々とした衣に埋立派は正面切って反対はできるはずがなかった。
 精々イヤガラセという圧力しかなかった。


<写真提供:佐藤 通晃 氏>