小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(30)

忍路と小樽


エアポケット
 本号「意匠」でふれた公園のエアポケットから連想して、忍路の村並みがすぐ浮かび上がった。「忍路は小樽のエアポケット」という勝手な位置づけだ。30年前『ふぃえすた小樽』というタウン誌の取材で忍路を訪れた際に驚いたことがある。浜に向かって一直線の村並みに漁家建築が軒を連ね、浜沿いにある忍路神社の周りに輝くように桜が咲いていた。まるで時間が止まったかのような長閑な光景だった。
 何軒か訪ねてお話を聞かせていただいたが、どの家も施錠されていない。どの家も不信がらずに茶の間へ招き入れてくれた。「ここは神の村か」とさえ感じた。

場所請負人 西川家
 忍路は鰊が大漁にとれたことから注目された。小樽市が小樽の起源とする元治2(1865)年、「ヲタルナイ場所」から「穂足内」になったとき、タカシマ場所(於古発川〜フゴッペ岬)に位置していた忍路は近江商人 第10代西川貞二カが場所請負人として管理していた。明治2(1869)年開拓使は場所請負制を廃止。漁場の独占を解かれた貞二カは小樽の堺町に分店を設置して商いに専念するが、翌3年に忍路の大火で忍路漁場も類焼。同19年八幡(近江)に缶詰製造所を建てて同21年に至り本道小樽高島忍路などに分工場を置き、水産物農産物を材料とする缶詰を製造し好評を博した。同23年以後は鰊の北上を察し、浜益宗谷枝幸紋別などに新たに漁場を経営。同31年小樽支店を閉鎖して忍路へ移し、これ以後はすべて緊縮方針をとるが、病に倒れ、爾来20年間郷里に隠遁する。
 大正9年10年12年の3回、彼は北海道へ渡り漁場や音江農場などを視察するが大正13年3月9日享年67才を以て波乱の生涯を終えた。
<『鰊場史話』越崎宗一>

忍路の系譜
 明治以後小樽郡は船浜や銭函を除いて中心部は漁業から商業へ脱皮し、港を整備し商業港湾都市へ一気に向かうが、高島郡の有望な祝津と忍路はやはり鰊に沸いていた。
 忍路は明治3年にオショロ場所から忍路村になり、明治8年忍路村の忍路神社は村社へ。明治11年忍路村に善光寺仮出張所設置、明治12年忍路村の浄土宗善光寺出張所は大忠寺と改称、明治18年忍路村の人口は本籍669人・戸数151戸、寄留264人・戸数63戸、明治32年忍路村の人口1,285人、戸数225戸、大正13年北大忍路臨海実験所竣工、大正15年忍路の中村子之吉は2ヶ所めのストーンサークル発見、蘭島のと併せて3ヶ所になる。
<『小樽歴史年表』>
 このように明治から大正にかけて忍路は鰊で人口を微増させ維持してきた。

忍路の歴史的建造物
 平成4年の日本建築学会北海道支部の調査において、忍路には31軒の歴史的建造物が存在したが、平成24年の歴史文化研究所の調査ではそのうちの21軒が消失している。そのほとんどは漁家建築の木造による老朽化、あるいは独居老人死去にともなう廃屋から取り壊しという運命を辿った。

エアポケット
 忍路はこのように鰊一筋で維持発展し、平成18年の人口が420人に落ち込んできた。しかし最近は焼き物やパンづくりなどをする若い方々の入植により、新たな桃源郷への突破口が開かれている。
 地形的にも竜ヶ崎という岬一帯に村が形成され、まさに別天地のエアポケットである。