小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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alwHOMEalw読んでみるalwインフラ(10) 地域のためになくてなはらないものたち

インフラ(10) 地域のためになくてなはらないものたち

小樽港C 大正期の小樽港-1


小樽築港第二期工事竣工の小樽港「小樽港修築平面図」大正12年<北海道大学附属図書館北方資料室蔵>
小樽築港第二期工事竣工の小樽港「小樽港修築平面図」大正12年<北海道大学附属図書館北方資料室蔵>

南防波堤建設状況<小樽市総合博物館蔵>
南防波堤建設状況<小樽市総合博物館蔵>
大正期小樽港湾年表
明治42年 平磯町〜若竹町海岸沿いの埋立工事竣工
明治42年 小樽港公有水面第一期埋立起工は8月31日まで延期許可
明治43年 小樽港鉄道院埋立速成同盟会結成
明治44年 第二防波堤を南防波堤・島防波堤の2つに設計変更
     鉄道院、手宮・厩町の第一期埋め立て工事竣工、手宮高架桟橋完成
大正4年 鉄道院、若竹・勝納の第一期第一次埋立工事竣工
大正8年 島防波堤・北防波堤延長工事竣工
大正9年 南・北防波堤堤頭に赤・白灯台設置
大正10年 築港展覧会開催

手宮海岸に建設された手宮高架桟橋<小樽市総合博物館蔵>
手宮海岸に建設された手宮高架桟橋<小樽市総合博物館蔵>
流通と倉庫
 明治後期から大正期はまさに物流基地としての小樽港全盛期である。大量の物資を輸送する大型の貨物船を迎えるために近代港湾整備は着々と進められていく。
 明治41年から大正10年にかけて小樽港第二期工事が施工された。第一期工事以来24年の歳月をかけて築造された防波堤の長さは3,535mに達し、全国初の大規模な外洋防波堤の完成。
 第二期工事の概要は、南防波堤、島防波堤、北防波堤延長部、赤白灯台であるが、いずれも第一期工事を主導した廣井 勇の指導を受けた伊藤長右衛門が小樽築港事務所長となって進められた。
 島防波堤、北防波堤延長部工事にあたっては、新たにケーソン(空洞のコンクリート枠・函塊)を陸上の斜路から海水に滑り落とし、使用する部分に運搬する方式だが、ケーソンは世界各地で使用されていたものの、この進水方式は世界初である。伊藤はコンクリートの耐久性、勾配上の滑動状況、滑り材獣脂などの綿密な実験を踏まえて、これを実現した。

手宮高架桟橋
 明治38年に北海道炭礦鉄道会社は、手宮駅構内沿岸で約16,000坪の埋立に着手したが、同39年に国有化されたため、鉄道院が継承し、明治42年に完成。その目的は明治44年竣工の手宮高架桟橋の建設にあった。国内の近代産業発展を支える石炭輸送に対応するための整備である。
 手宮高架桟橋は長さ940尺、幅員70尺、高さ満潮面上61尺の木造である。これは昭和19年に廃止されたが、煉瓦造の擁壁は今日も残っている。

叡智の結集
 明治以降、近代化を邁進した日本の中で、近世(江戸時代)に完成していた街区を持たない北海道は、近代化の実験地であった形跡が強い。就中、小樽は道内に流通しやすい道央に位置すること、また北海道本府札幌に近いことから物流基地であるばかりか、近代ビジネスモデルの交流・発祥の地となっていく。
 しかもまちづくりでは、廣井 勇・青木政徳・伊藤長右衛門らの世界第一級の港湾技術者、松本荘一郎、平井晴二郎らの鉄道関連技術者、辰野金吾、佐立七次郎、曾禰達三、長野宇平治らの近代建築設計者の叡智が結集された。
 そして多くの商人が小樽商人となって財を築き、金融資本も支援し、これらの粋を究めた建物が今日も残っている。