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地域資源活用ビジネス(1) 小樽独自のビジネスモデル

叫児楼 歴史的建造物再活用
佐々木 一夫 氏


佐々木 一夫 氏
佐々木 一夫 氏

地域資源
 1992(平成4)年日本建築学会北海道支部の調査で、小樽市内には木骨石造345、本石造39の石蔵があるという報告があります。しかも、その建築様式は全国的に珍しくはありませんが、小樽のものには小樽軟石や札幌軟石が使用されていることが特徴です。運河沿いの倉庫群は有名ですが、現在でも市内のあちこちに石蔵が多く存在しています。かつて小樽が発展していた頃、「石蔵を建てると一人前」くらいのシンボルであったと思えてきます。
 今日の小樽観光を支える要因は、木骨石造建築をはじめとした多くの歴史的建造物を再活用していることが大きいのですが、この事例の小樽における先駆けがありました。

アムステルダムの運河
 昭和40年後期、スクラップ&ビルドはなやぐ高度経済成長終盤期に、札幌で「ドッコ」という喫茶店に勤務していた佐々木一夫氏(昭和25年小樽生まれ)は、古道具が好きで札幌・小樽の骨董品店を暇があれば回っていました。そして札幌の北24条あたりに独立して出店を計画しますが、ドッコのオーナーに誘われて1973(昭和48)年にオランダのアムステルダムに旅行へ行きます。そこでは古い街並みの中にレストラン・ギャラリー・ディスコ・アンティーク・レコード店などが活気づいていました。佐々木氏はこの風景の中で200%の興奮をかきたてられ、これがのちの人生を決定づける契機となりました。
 ドッコ時代は「興次郎」といわれ、常に何かに立ち向かい、語っても語っても表現しきれなかった青春時代の悶々とした何かが、アムステルダムの運河沿いの風景を目の当たりにしたことで、佐々木氏の人生は暴走しはじめるのです。

叫児楼誕生
 1975(昭和50)年、小樽の静屋通りにその名も「叫児楼」がオープンします。しかも「ここはなんだ?」と誰もが頭をひねる質店の石蔵がそのステージでした。もちろん大家の奥村氏も「えっ? 蔵で喫茶店?」と大いに驚かれます。佐々木氏にとっては、喫茶店は二の次、まず石蔵ありきでした。
 入口は非常に狭く、これは佐々木氏自身が聖書の一節に感銘を受けたことに由来します。初日のお客さんは近所のNTTの二人きり、二日目も同じ、そして三日目に写真家の志佐公道氏(ペーパームーンオーナー)が加わって三人という寂しいスタートでした。

評価
 新生叫児楼は一ヶ月ほどしてなんとか採算ラインに達します。お客の多くはカルチャーショックを受けますが、主にジーンズ系の若者が多く、まるで同じ思いをもつ昔からの馴染みであるかのような関係が自然発生的に紡がれていきました。
 誰も蔵の中には入ったことがないので、室内の梁などを見て、新たに造作したものだと思っていました。さらには、元々あったその梁が、料理で火を使うことから乾燥し、「バリッ!」と大きな音をたてて亀裂が入ることもありましたが、大工から「そんなことでへこたれるような造りでないから全く心配ない」とも教えられました。悩まされたのは結露で、しかも瓦屋根なので、何度瓦を修復したかわからないほどです。

一世を風靡
 昭和50年代中頃から叫児楼のある静屋通り(第四代北海道庁長官北垣国道の雅号に由来)には、籔半・戯屋留堂・ミッキーハウス・マッチボックス・あとりゑ・珈琲野郎・のいぶるすと・ペーパームーン・ホワイトハウス・エルムなど若者文化発信の店が林立するようになり、当時の新聞に「小樽の原宿」などと書かれたり、さらにその影響を受けて、札幌円山裏参道にも飛び火したりしていきます。静屋通りの変身は、あくまでも自然発生的で、組合的な存在がないにもかかわらず、どの店も店頭にベンチを置き、静屋通りに行けば友達に会えるという開放的なストリートになっていくのです。
 誰も小樽が観光地になるなどとは思ってもいない時期で、さらに古い建物は壊して当然と思っていた時代です。
 2000(平成12)年に佐々木氏は叫児楼を閉じますが、叫児楼に惚れ込んだ菅原康晃氏が二代目叫児楼を引き継いでいます。現在佐々木氏は小樽運河プラザ内の一番庫カフェを営業しています。

叫児楼内観
叫児楼内観

叫児楼外観
叫児楼外観