小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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コラム 信心


生き方の根拠
 人は生きていくうえで、様々な生き方を選択します。道を歩けば道が分かれるように、人生の道も、その過程で何度も分かれ道に遭遇します。人の利口さは、どちらを選択するかを悩むとき、たとえば右の道を選択したのなら、今後、同じことに繰り返し悩むのもしんどいので、なぜ右を選んだかという「根拠」も同時に導き出そうとすることです。さらに利口なのは、この根拠と目標は密接にかかわるべきと考え、目標に向かう姿勢を導き出し、進めば進むほど目標に近づこうとするのです。

避けられない不安
 この根拠を「生き方」とか「考え方」といいます。しかしその選択が目標に近づいているか遠のいているかは、誰も正否を下すことはできません。「明日のことは誰もわからない」からです。
 したがって人は「不安」を抱えます。相手がいる場合は相手の心に不安を覚え、状況が複雑であれば状況の転がり方に不安を覚え、事故や事件に遭遇するかもという不安を覚えるのです。どんなに堂々と進んでいても、どんなに権力や財力を持っていても、この「不安」は必ずあります。「不安」がなさそうに見えるというのは、「不安」を隠しているか隠れているかでしかありません。

信じるという発見
 この人間が普遍的に抱く「不安」を少しでも「安心」に導くために、人は「信じる」という極めて単純な手続きでその切符をつかもうとしてきました。自分の根拠を信じ、相手を信じ、未来を信じ、無事を信じるのです。「不安」を「信じる」ことで相殺でもしなければ「不安」は高まるいっぽうだからです。「信じる」ことは人間が生きていく上で、誰にでも発見可能でありながら、人類最大の発見であり保険でもあります。

不安と信じることの関係
 「不安」が高まるという現象は、裏を返せば「なにも信じない」「だれも信じない」という志向が高まることにほかなりません。そうすると不眠症や神経系統に異常をきたす可能性が強くなると同時に、人とのコミュニケーションにも異常をきたします。さらに悪いのは、相手への「不信」は、相手側の「不信」として反映され、ますます「不安」が高まることです。
 ここまでは多分、こんな七面倒くさい分析や理屈をせずとも、誰もが生理的に体や経験で学習しているでしょう。

騙し騙され
 問題は、誰にでも発見可能でありながら、人類最大の発見であり保険でもある「信じる」という「良薬」で被害に遭うことが頻繁な時代に、私たちは生きているということです。 いわゆる「騙し騙され」の現実です。
たぶん、人を信じなくなったきっかけも、かつて騙されたおかげでしんどい目にあったことに起因する場合がほとんどです。

騙す背景
 騙す者がいるから騙される者がいます。騙される者がいるから騙す者がいるとは限りません。誰もが事故が起きないことを信じて歩いていることと同様で、車を運転する人の不注意で事故が起きるのと一緒です。
 ではなぜ騙そうという気がおきるのでしょう。一定の贅沢や地位を味わっていた者が、その力を味わうことができなくなった時、「騙してやれ」という魔の手が忍び寄るのです。かつて苦労して築いた贅沢や地位なのに、時代の変化や小さな手違いで、みるみる牙城が崩れ出し、どん底に落ちた場合、既に「もうあんな苦労や屈辱は味わいたくない」と思うので、簡単に元通りにする方法として「騙す」ことを思いつき、周りは騙される者ばかりだという人間市場の有望さに気づきます。早い話、「騙す」気は苦労を避けるところから発します。「騙される」方も「そんな簡単に手にはいるなら」と思うと「騙し契約」は成立します。

二重の不安
 人間はただでさえ「不安」を抱えるのに、「騙される不安」まで抱えて生きています。この先天的・後天的二重不安が生きていく上で必ずあり、「騙し」という後天的不安の増殖を加速し複雑化しているのが、グローバル化した現在でしょう。

どうすんの
 結論は、信じられる関係を広げ、苦労して勝ち取る以外の誉に耳を貸さないことなのです。信じられる関係があれば、そこから先天的不安を解消するヒントをもらえ、そう簡単にうまくはいくまいと思えば騙されることも少ないでしょう。
 ところが、「騙されてもいい」という気が存在するのも事実です。これは突然変異の世界で語るに足りません。