人の絆模様のある原風景
金井 衛・弘子 夫妻
パン工房 GABBEH(ギャベ)
〒047-0043 小樽市豊川町1-10
TEL 0134-24-1276
原風景への旅立ち
弘子氏は昭和31年に北海道神恵内で生まれ、18歳の時に仙台へ移転、昭和57年に金井衛氏と結婚される。ご主人の衛氏はサラリーマンで、趣味としてパンづくりをされていた。故郷の失われていく風景に対し、衛氏は頭の中で「あの時代(仙台での子供時代)は良かった。洗濯屋さん、菓子屋さん、パン屋さん、銭湯などわかりやすい形態で、しかも誰もが顔見知りだった」と感じるようになっていく。
衛氏の原風景はまさに日本の高度経済成長期にあった。皆が頑張れば皆が生活を向上させていくことができた時代。だからこそ助け合うという人と人の絆が形成された。子供達は地域の財産で、大人達が皆先生でもあったし、なにより大人同志の仲が良かった。そして小売業やサービス業が自立し専業化していく過渡期にあった。
衛氏の原風景にはそんな人々の心模様も同化していた。だからこそ、単なる望郷の念に留まることなく、新たな行動へのバネになっていく。
脱サラ
ある日突如として衛氏は奥様・弘子氏に「小樽でパン屋をしようか」と告げる。あまりにも突然だったことから、「えっどうして小樽?どうしてパン屋?どうして今なの?」と目まぐるしく疑問が駆け巡ったという。そもそも寡黙な衛氏はうまくその意思を説明できない。
仙台から北海道の奥様の実家神恵内との往復は、結婚後何度も二人で体験されている。仙台から寝台車の北斗星に乗って、小樽で乗り換えバスで神恵内へというコースだ。必然的に往復で小樽を通過する。この経験で衛氏の中に「小樽」という地域がインプットされたに違いない。
一方小樽の昭和50年代は運河保存運動で無数の報道が全国に発信された。そして昭和58年以降、小樽は今度は観光都市として無数の映像を全国に発信していった。これらの映像の多くは歴史的建造物を再利用した様々なレトロな観光施設だった。事前に「小樽」がインプットされていた衛氏の中に、まるで乾いた土に雨が染みこむように、原風景を維持したまま生まれ変わっていく小樽の映像が染みこんでいったことは充分想像できる。
「これから脱サラして小樽でパン屋をする」という決意は、心模様を込めた原風景への憧憬、せっかく一度の人生を自分らしいライフスタイルで生きたい、できることはパンづくりという要素の結論だったのではないか。一方、寡黙な衛氏はきっと「そうです」と断言もしない。7年前から始めたこの生業の中で、この未知数の動機は時間をかけて、衛氏の中で少しずつ明らかにされていくに違いない。
展望
「やはり冬は厳しいですね。夫は朝早くからパンの仕込みですから雪かきは私の仕事です。神恵内の娘時代は男達の仕事でしたので、まさかこの年で雪かきをするとは人生は不思議です(笑)」
「私は特に小樽移転に積極的ではありませんでしたので、店舗の立地は全て主人が決めました」
ギャベが立地する手宮は小樽に残された唯一の下町。だから「オープン当初から近所の方々がお客様になってくれて人情味の厚い地区だと感謝しています。よくお裾分けなんかもいただいて温かさを感じています」という。衛氏としては「してやったり」だろう。
ところが一方で、俗に手宮は外部から人々が訪れる地区ではないばかりか、通過地区でもない。ということは最初から最後まで現在の規模を維持するのが精一杯。だから移住の際に小樽市に検討していただき、小樽市役所地下の売店、市立小樽病院の売店、そして小樽駅のタルシェにパンを卸し、衛氏が配達もされている。
古き良き昭和の本質的な良さを求めるギャベは、器用な生粋の小樽人より、むしろ本当の小樽人といえるだろう。
独自の天然酵母やクリーム白パンなどを求め、多くの人々が訪れることを期待したい。