小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(1)

峯山 冨美 氏


峯山 冨美 氏
峯山 冨美 氏

動 機
 2010年12月28日午後11時45分、峯山冨美さんが逝去された。遡る2年前、2008年11月30日、小樽市民センターにおいて、日本建築学会文化賞受賞記念で迫真のご講演をお聞きしたのが私にとっては最後の出会いだった(謹んでご冥福をお祈りします)。 
 12月30日小樽シオン協会で敬虔なクリスチャンであった峯山さんの前夜式が営まれた。私は運河に関しては昭和53年以後からかかわった後発ではあったが、34年前から深く関与し、峯山さんの後塵を拝してきたので、参列された人々はなんとも懐かしい方々との出会いでもあった。
 峯山さんはじめ多くの人々との出会いに勇気や智恵を授けられたことが走馬燈のように蘇ってきた。
 まちづくりは永遠のテーマゆえ総決算とはいかないが、少なくとも現場にいた者の視点としての記録をいま整理しておくことに意義があるとも思える。諸先輩や同志らが小樽のまちづくりでどのような働きをし、今日にどのような波紋を広げているかを、シリーズで記そうと思う。

プロフィール
 1914(大正3)年虻田郡真狩村生まれ、庁立小樽高等女学校補習師範科卒、三菱商事入社、後、北手宮小学校勤務。1973(昭和48)年小樽運河を守る会参加、同53年会長就任、平成22年永眠。

想い出
 晩年、「ちょっといらっしゃい」と電話を受け何度か私は峯山さんのご自宅に伺った。いま小樽で起こっている問題の情報を、現場にいることの多い私から得るためと心得た。その都度、大きな視点で多くの示唆をいただき、勇気とエネルギーを授かった。むしろ呼出は私をそう仕向けるためだったかと苦笑したくなる。

一介の主婦
 小樽運河保存運動が小樽を二分するほど大きな運動となり、全国のまちづくり同志への波紋を広げ、霞ヶ関や国会でも議論されるほどの話題となったのは、ひとえに峯山さんが様々な突破口を開けてきたことによる。
 生前ご本人の口から「私のような一介の主婦が恐れを知らずに闇雲に手探りで訴えていったことに、皆様がよく応えてくれた」と受け止めてくれた方々への心からの感謝を込めた話を何度か聞かせて頂いた。
 立場や肩書きを持てば持つほど、人は「恐れ入る」ことを弁える。そこから生まれるのは加速かもしくは減速の調整だ。反回転や新展開にはなかなか至らない。
 一介の脱藩浪士でしかなかった坂本龍馬が勝海舟や松平春嶽という確固とした立場を持つ人々を動かしたように、そこには立場を超えて響く情熱や内容のみが、その人物を通して伝わった結果だ。そして伝わる側にもまた、大局的に寛大でかつ本質を求める羅針盤がなければつながりはしない。

峯山さんだから
 峯山さんが如何に多くの行動をしてきたかは、その著『地域に生きる』において、導いてくれた方や支援してくれた方々に感謝を込めて記され、あらためて驚く。
 が、ここで私がいえるのは峯山さん独特のパワーについてである。
 峯山さんは運河保存運動の求心力でありつつ同時に遠心力であったこと、そして運河を我が子のように母なる愛情で包まれ、文字通り手探りで様々な門戸を開いてきた。
 その麓にいた私は、人の世の常とはいえ、そんな峯山さんへのネタミやソネミもよく耳にした。それらの一つ一つに悲しまれ悔やみながらも、心で「ごめんね」と手を合わせ、公私を切り離し、自らの使命を果たそうと常に前に進もうとしてこられた。
 その孤独な決意はクリスチャンだから、女性だったから、立場を持たなかったからできたのではない。峯山さんだったからできたのだ。

人と人
 今からたった30年前、「小樽って?」という全国の多くの人々の認識に、今「小樽っていいところですね」という全国に行き渡らせた突破口を開いたのは峯山さんをおいて他にはいまい。
 残された我々は無論、峯山さんにはなれなしないが、孤独な闇の中を手探りで前に進もうとする情熱は持たねばならない。
 人と人にはそういう突破口がある。だから無理も可能になり、怖いような人とも友になれ、人であることの感動を覚える。

(石井 伸和)