ライフウエイ
編集人 石井 伸和
人間史
人は欲望の生きものである。欲にはキリもなければケジメもない。放任すれば殺戮もまかり通る。あまつさえ、あらゆる動物の中で同類どうしで殺め合うのは人間だけという、極めて危険な生きものでさえある。
だから権力が誕生し法律がつくられてきた。法に従わねば罰する権力を人間自身がその集まりである社会にこしらえた。さらに周到にも法に従う教育も同時に施行してきた。
いわば人間は権力と法律と教育の枠の中で、それぞれの人生を送っている。
このような枠組みの中で欲望を「見えざる手」と是認し、故に人は自主的に向上心を持つという習性を発見した。欲望を向上心に転化するという画期的な懐柔といえる。人の欲望を需要側に、向上心を供給側に据え、原理化や数値化をし、民衆生活全体のバランスをとる仕組みを経済とする概念が誕生した。いわゆる資本主義経済である。
ところが、「見えざる手」の放置は自然体系を破壊する領域に入り、地球全体の環境問題を生むに至る。無論経済の営みだけが原因ではなく、殺戮絶えない紛争も大いに環境悪化を促進してもいる。
人間がこしらえた権力・法律・教育の守備範囲を地球環境にも及ばさねばならない時代になった。
資本主義
資本主義ともなればいやがおうにも競争が原則であるから、勝敗という結果がまとわりつく。誰もが勝ちたいと欲する。
この力学がこれまで、8億人の人口で競争していたところにBRICsという新興国が加わり30億人に及んでいる。これが資本主義経済の実態だ。
対 策
地球上の誰もが基本的に安心安全でありたいと願っている。とはいえ欲望を抑える自信がないのも重々知ってもいよう。「なんとかしなければ」という不安は、今世紀最大の人間テーマとさえいえる。
対策には2つの切り口が考えられる。権力・法律・教育の新たな組み替えを世界規模で講ずることが一つ、もう一つは人間が持つ習性としての文化意識の醸造である。
前者は世界中のVIPをコーディネートするという上部を一気に改革する遠大な任務であるが、後者は下部から個人でいますぐ改革する方法である。
文化意識の醸造
前置きが長すぎた。この稿では文化の重要性を語りたい。文化と対比する概念として文明がある。飛行機・自動車・テレビ・パソコン・携帯電話など、わずかの手続きで世界中の誰もが一定の満足を得る素材を分明という。経済は文明を追ってきたからいまやグローバルとなった。
これに対して文化は、「場や組織の居心地の良さ」をいう。「この街並みが好き」「この会社が好き」「こうしているときが好き」など、これらの好きさ加減には、信念・誇り・愛情なども調和され、しかも固有の感覚で、決して万国・万人共通ではない。
一本の木に例えると、根や茎や枝がその場からは離れない文化であり、実や花などが「美味しい」「美しい」などという共通価値を持ち流通する文明と考えてもいい。
こんな時代だからこんな個人
経済は文明を追ってきたから、需要を持つ側を消費者と設定してきた。一つひとつの物事に単発に反応する消費動向をもっと総体的にとらえようとし、消費者は生活者だというマーケティングも登場してきた。
さて結論である。ライフウエイという概念の提唱をと考えている。客は企業側から勝手に「消費者」「生活者」と設定されてきたが、客自らがライフウエイを持つという需要者の復権である。「生き方」「生きる姿勢」といった意味である。
ライフウエイ
京都竜安寺の蹲踞(手水を張った石)に「吾唯足知」と彫られている。禅宗の解脱の領域であるが、俗にいうと「俺はこれで充分」という境地をいう。
「小樽の街並みがいい、後志の自然がいい、このデジタル機能でいい、この服装がいい、そしてたったひとつこの志は遂げたい」
最後のたったひとつが志であり、前段はライフスタイル、これがライフウエイの体系だ。
別な言葉でいうと「個の確立」で、未熟な個人主義のこの国には特に必要だ。