小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalw帰化人(20) 小樽こだわりのライフスタイル

帰化人(20) 小樽こだわりのライフスタイル

ローカトンビが行く
新小樽市長 中松 義治氏



帰化経緯
 この度の統一地方選挙によって4月24日当選を果たした中松氏は昭和21年夕張で生まれた。北海道立夕張東高校を卒業後、北海道拓殖銀行入行、北広島支店長、美幌支店長、旭川二条支店長を経て、平成8年小樽支店長として小樽に赴任。
 このときの小樽への印象は、チャレンジとチェンジの気風の欠如だったという。そして、転勤族の誰もが感じる「おもしろい街なのになぜ一つになれずバラバラなのか」という疑問を持つ。たとえば同じ観光なのに、観光協会と観光誘致促進協議会という2つの組織があること、硝子の街なのに組合すらないことが理解できなかったともいう。
 一方拓銀そのものも信用不安という暗雲が2年前からたちこめ、それを挽回するためにも、お客様をくまなく歩くトップセールスに邁進する。それは他を批評する前に、自らがチャレンジとチェンジの気骨を持つことを課そうとする信条からくる。
 しかし甲斐無く、平成9年拓銀破綻。この小樽赴任1年間がまさに中松氏の人生の一大転換点となる。

拓銀と小樽
 北海道拓殖銀行は明治33年に設立され、翌34年に支店一号店として小樽支店が誕生する。まさに当時の小樽が北海道経済の拠点であったことを示している。その歴史を知っていた中松氏にとって小樽は、本家本元の経済活動の活躍の地であったといっていい。だが時代の波はその儚い夢を飲み込んでしまう。

小樽市収入役
 平成10年に北洋銀行小樽中央支店支店長となって新たな契機に恵まれ、さらに翌11年には山田市長自らの誘いで小樽市収入役に抜擢。約7年間の行政マン業務ではあったが、市の金の出入りを管理する任であったことから、財政再建団体の崖っぷちに身を置く。「いざという時に資金提供をしていた銀行から、いざというときに困る側に回っていたんですね」と当時を振り返る。「市という公的な機関がいざというときに財源がないのは行政を預かる立場からは絶対にあってはいけないことだと肝に銘じて感じました。それはたとえば今回のような東日本大震災のような事態を想定すれば、市民に支援の手を差し伸べることさえできないのです」そして次第に自治体経営にはその財源となる経済こそが大きな原因だという思いを固くする。

商工会議所専務理事
 平成18年、まるで運命の神に試されるかのように中松氏は、小樽商工会議所専務理事として野に身を置く。そして「お前自身が意を固くした経済活動の第一人者の立場だ」と自らに言い聞かせ、その実態を民の立場で凝視するのだ。約4年間の会議所での議論が基本となり、現在の4つのプロジェクト(第22号トピックス)に発展する。「現在のプロジェクト内容は山本会頭ご自身のコーディネートですが、観光・物産の振興、後志との広域連携による商品開発などの方向性には私も加わって意見を述べさせていただいてきました」

小樽市長としての決意
「今回の市長選において、相乗り批判が随分あったようですが、私にとってそれはむしろ小樽が一つになって力を合わせる絶好の転機だと、プラス思考で確信しています。なぜなら私は転勤族の一人として小樽に縁を持ちました。私のような転勤族であれば誰もが思っているように、小樽のおもしろさを認識してもバラバラな小樽から脱皮できなければ、そのおもしろさがリアリティを持たないと客観的に見ているからです」
「私が市長としてできることは、いざというときに市民の皆様方を支援できる財政基盤確立と同時に、それを実現させるためにも経済振興を基本に据えて、自らトップセールスを積極的に行うことだと考えています」
「私は銀行マン時代にローカトンビといわれました。廊下を飛び跳ねるトンビのように、一つのプロジェクトの根回しを各部署に縫うことをよくやりました。議論はこういう時に熱を帯びることもよく知っています。頑固だともいわれますが、私の考えより真実に近いものがあればいつでも発展的解消を惜しみません。議場でも委員会でも巷でも小樽のためにどんどん議論をしたいと思っています」