小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくりから学ぶ(5) 運河を守る会とポートフェスティバル

若者参戦前夜その4
石井 伸和


小樽の若者風土
 ポートフェスティバルのスタッフの過半数は、自らのステージをつくろうとする様々な音楽ジャンルのバンド仲間が貢献していた。ロック・ブルースの拠点となったのが昭和50年に質屋の石蔵を再利用した叫児楼、またポートの初会合が行われたのが、昭和52年に佐々木(恒治)が堺町の倉庫を再利用したメリーズフィッシュマーケット、そしてポートのフォークの拠点となったのが昭和51開店のメリーゴーランド、夢街の会議の場が籔半、ふぃえすた小樽編集の場がホイホイハウスやマッチBOXだが、一方で当時の小樽の若者文化の交流の場となる拠点があった。
 小林多喜二の『不在地主』のモデルとなった磯野進が、明治39年に建てた磯野商店の煉瓦造3階建ての倉庫(奥野商店所有)を昭和51年に再活用してカフェ兼舞台にしたのが「海猫屋」である。現在の「森ヒロコ・スタシス美術館」館長の長谷川洋行氏が、当時NDA画廊の美術商時代に、ある講演先でビショップ・山田氏と出会い、小樽に誘致、小樽の知人らから5万円の出資を仰ぎ、奥野商店と交渉して海猫屋という受け皿にした。カフェは港町の場末の酒場で、今日のカフェの嚆矢であり、ビショップ・山田氏は「北方舞踏派」を組織し、アンダーグランドの暗黒舞踏を繰り広げていた。さらにここでは映画マニアなどが編集したショートストーリー的な映画の発表の場となっていた。ビショップ・山田氏は小柄で痩せて長髪でいつも着流しを纏っており、いかにも芸術家肌の容貌だった。まさに団塊の世代の研ぎ澄まされた芸術論がここでは交わされていたが、ポートのスタッフの流れを持つより、ポートのスタッフが客としてよく出入りしていた店だった。
 さらに後年の昭和57年にはJAZZカフェ「BeeJay」が昭和57年に開店(平成11年閉店)し、ライブも可能だったことから、ポートのスタッフの会合や打ち上げの主舞台となっていく。
 世に「料亭政治」という俗諺があるように、小樽のムーブメントはこういった拠点を交流の場として誕生してきた。いわば芸術に触れたり、酒を媒介にしたり、こだわったロケーションをほどこしたりした環境に若者が集って、新たな小樽の議論が活性化していった。

志という名のバトン
 古今東西、社会的なムーブメントには、それを成就するに足る多くの主役が磁石のように吸い寄せられる。狭い小樽の若者達のこの運動と活動においてもこの方程式は立証される。
 企画立案や提案のほとんどは石塚と山口が担うが、彼らは一度として主役にはならないことも不思議な展開である。
 いま振り返れば、この綴りが続けば続くほど、多くの若者が登場し、まるで自らの出番を待っていたかのようにバトンが手渡されていく。そしてそれは決して過去のことではなく、今日もなお志というバトンを持って走り続けているのだ。

若き日の小川原 格氏(左) 佐々木一夫氏(右)
若き日の小川原 格氏(左) 佐々木一夫氏(右)
小川原 格
 次に新たな志を実現するための名通訳が登板への予告として現れる。
 小川原格氏は静屋通りの蕎麦屋籔半のあととりとして昭和50年に帰郷する。
 1968年、芝浦工業大学に入学し学生運動に身を投じ、学園闘争のリーダーとなり、7年半在籍して結果的に大学を除籍処分。
 そのため両親はもとより親戚から総スカンを食わされたが、大叔父にあたる倶知安の画家・小川原脩氏のみが理解をしめしてくれたという。
 後年、小川原に様々な相談をするようになる私は、出会った当初驚くべきことを知らされる。
 深夜までのポートフェスティバルの会議を終え帰宅する小川原に同行した途中、
「石井、気がついたか? 後をつけられているな」
「え、誰に?」
「小樽警察署公安担当刑事。一度学生運動で逮捕されたりするとな、帰省しても、東京の警視庁から道警に申し送りされてな、こうやって監視されるんだ。もう学生運動などやってないのに、意味もないことをする。でも、もう刑事さんと顔見知りだし、全然気にすることはないからな」
と平然としていうのだ。
 事実、佐々木(一夫)もポートの会議を終え小川原とともに帰宅する際に、酔っぱらいの振りをしていたそれらしい男に小川原が、
「今日はもう帰って寝るんだから、あんたも安心して帰りなさい」
と告げる大胆な現場を目撃したことがあるという。
 どちらがお目付役かわからない。
 まだ全共闘運動のなごりが濃かった時代だった。新旧左翼や右翼、宗教活動を監視し、全国の警察の部署が地方での監視をする。
 小川原の場合、警視庁から北海道警察へ、そして小樽警察署へ申し送りされていた。
 学生時代以来帰郷しても公安にマークされていた、というかポートフェスティバルの開始した時期は、まだそんな全共闘運動の名残りが濃い時代でもあった。
 小川原は、昭和50年に同じ静屋通りにオープンした「叫児楼」に、父小川原昇氏と共によく珈琲を飲みに行った。
 そこで、佐々木から山口 保の話を何度か聞かされ興味を持ち、山口の仲間の「ハビタ」という建築家集団が運河保存のシンポジウムをやることを知り、運河傍の会場・前野麻袋倉庫に出かけた。
「おかっぱ頭にツナギ姿で会場設営をし、自分と同じような匂いを放ち目がぎらつくように輝いていた若者」それが山口を初めて見た小川原の印象だったという。
 小川原は、日本建築界の大家・西山卯三氏の講演も素晴らしかったが、このような石造倉庫をシンポジウム会場した若者達のセンスに感心した、という。
 一番後で籔半の半纏を着てムシロの上に胡座で座る小川原の姿が印象的だった、と佐々木は語っている。
 そして昭和53年第1回ポートフェスティバルの広告も、父昇氏が30万円を出してくれて、その侠気の大きさに佐々木は感動し、またポートフェスティバル当日には小川原が実行委員会のテントに差し入れまで届けてくれた、とも。
 小川原、山口、石塚、佐々木恒治らが佐々木一夫を核として、大きな遠心力が回りはじめていく。

若き日の原田 佳幸氏
若き日の原田 佳幸氏
原田 佳幸
 昭和52年、小樽の一杯飲み屋「いぇい」で三人の若者が飲んでいた。原田佳幸氏、岡部唯彦氏、滝沢 裕氏である。話題は音楽、そこからバンド結成に向けて気勢があがる。名付けて「ホイホイブラザース」。この三人も前述のビートオンザブーンに参画していた。接点となった場所は叫児楼である。そして昭和53年の春、彼らも実行委員として、またバンドとして既述のメリーズ会合に集合するのだ。
 原田はサントリーバー「バレル」に勤務していたが、昭和53年6月に叫児楼の向かいに「マッチBOX」という喫茶店をオープンさせる。このオープン準備の多忙のさなか、ポートフェスティバルでは重責を担い、大きな貢献を果たす。
 ちなみに「ホイホイブラザース」は間もなく解散し、花園に「HOI HOI HOUSE」というパブを原田を核にして開店し、経営は変わって今日も健在である。いっぽう岡部は「ビッグマラーズ」というバンドを及川良樹・館山誠治・松橋敏幸・上田早苗らと結成し、前半のポートフェスティバルのロックステージのトリを飾っていく。

大谷 勝敏
 当時、小樽の鞄煌O設備に勤務していた若者たちもよく叫児楼に出入りしていた。大谷勝敏氏・渡辺真一郎氏・草野治氏・広瀬一郎氏らである。それぞれ同じような年代であるが、昭和25年生まれの大谷がイベントにおける現場管理能力を発揮していく。彼らもまた昭和52年秋のメリーズ会合に出席していた。メリーズ会合で「運河を保存再生させるためのイベント」には熱い志を抱くが、市民運動がともすれば政治活動に偏るのではなく、市民に向けた運動であるべきというスタンスで仲間入りを決めた。
 いっぽう大谷はブルースの大ファンで、音楽企画にブルース収穫祭を盛り込むことを提案し、当時札幌を核に大活躍をしていたブルースバンド ベイカーショップブギにも話をつけ、ベイカーのコーディネートも加わり数バンドが駆けつけることになった。以後このブルース収穫祭はポートフェスティバルの定番となっていく。