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まちづくり運動から学ぶ(6) 運河を守る会とポートフェスティバル

若者参戦前夜その5
石井 伸和



ハビタ
 石塚・柳田・森下ら北大三人組は同じ建築関連で「北海道の環境を考える会(ハビタ札幌)」という仲間に提案し、昭和53年6月28日、運河沿いの木骨石造の前野商店麻袋倉庫(現在駐車場)を会場にシンポジウムを開催した。西山卯三(京大名誉教授)、足達富士夫(北大教授)、越野 武(北大助教授)という錚々たる学者たちがパネラーとなった。
 小川原・石塚・山口が佐々木一夫を介して、接点を持つのもこのときである。
このシンポジウムは、運河というロケーションで意図的に行ったイベントとしては初の試みだった。ハビタは英語のHabitatで「生息」を意味する。当時美唄工業高校教諭の駒木定正氏、設計事務所勤務の狩谷茂夫氏と山之内裕一氏ら一級建築士の仲間で、北海道に根付いた建築を研究していた。
 因みに、昭和61年に旧岡田家の部材移築で小川原の籔半を設計したのは狩谷で、駒木が間に入り、平成22年に祝津の茨木家中出張番屋の修復設計したのは山之内で、駒木が間にいた。駒木の運動はこの当時を契機に今日もなおブレルことなく深化している証である。

駒木 定正
 現在、小樽の歴史的建造物の研究第一人者として名高い昭和26年生まれの駒木定正氏は、美唄工業高校在職中に何度も小樽に訪れていた。夕張の炭鉱住宅を研究していた傍ら、小樽の歴史的建造物の多さに興味を覚えていたからだ。そして視察の途中で叫児楼に休みに行く中で、ポートフェスティバルの話を聞き、その仲間に入っていく。一週間に一回のペースで小樽に通い、長時間に亘る議論の末、よく朝帰りで美唄に戻り教壇に立っていたという。
 その熱さは、近畿大学在学中に大阪の中之島まつり(昭和48年第一回)を興味津々と見つめていたことに端を発している。中央公会堂・日銀大阪支店・大阪市庁舎・府立図書館など取り壊しの危機にあった際に、中之島まつりを若手の建築家や技術者の集団の呼びかけで市民が開催し、その貴重さを訴え保存に貢献したという出来事だ。
 そして駒木の視点は、運動の大切さを認識していたことからポートに参加していたが、もう一方で、運河沿いの倉庫や市内の歴史的建造物に関する調査がなされていないことを憂い、自らができることとしてそれらの調査の必要性を強く感じていた。
 この人物が、運河のみを守る運動から歴史的建造物をも守る運動への切り替えスイッチを押した張本人である。そしてこの天職ともいうべき問題意識は、昭和58年4月に小樽工業高校転勤を機に精力的に小樽の歴史的建造物の研究に向かわせる。
 小川原の言葉を借りれば「石塚や駒木らのデザインや研究を柱として運動を展開していく」という信頼に置き換えられるだろう。

文化的視点と経済的視点
 駒木らを核とした小樽の歴史的建造物の調査は学術的領域である。この学術的調査なくして建物の価値は浮上してこない。したがって歴史的建造物の再利用のベースはこのような学術調査といえる。「こんなすごい人が設計した」「こんな斬新な技術が取り入れられている」「当時としては相当な予算をつぎ込んでいる」などといった様々な価値がそこに見いだされると、その価値を踏襲した再利用が検討される。この再利用の検討において2通りの方向がある。文化的視点と経済的視点だ。たとえば国指定重要文化財旧日本郵船のような場合や個人住宅のような場合は明確に文化的視点の再利用だが、多くの再利用は経済的視点で検討される。外観の魅力で来店者を呼び込み、内観の魅力を活かした陳列や使い方で商品やサービスの価値を上げて販促とする。
 この経済的視点における再利用こそが、2,357棟(平成4年調査)もある小樽の歴史的建造物という財の普遍化の道といえる。が、この道にはいまだなんの道しるべもない。投資する個々に頼っているのが現状だ。たとえば小樽市が都市計画において誘致条件を整備したり、小樽の不動産組合が2.357棟のデータベースを構築して誘致活動をしたり、建築業者が移築や引き家やメンテナンスの技術を修練したり、まちづくり運動家が手宮線沿線への誘致をコーディネートしたりといった連携があっていい。
 さらに経済的視点での再利用こそが、より多くの人が参画できる大乗仏教的乗り物となる。しかしこの時期は、もっと大局的に運河をはじめとした歴史的建造物の価値を拡声器で宣伝することで精一杯だった。

調査の必要性
 第一期小樽運河を守る会事務局長であった藤森茂男氏は「小樽っ子のすすめる運河を守る運動」において、調査をすることによって運河の価値が顕在化すると以下のように言っている。
〜第一に、文化庁は一昨年の陳情にいち早く反応を示し、価値を認めたのです。そして、昨年十月の町並み保存改正にともない、全国百二十ヶ所のベスト5に私達の小樽をリストアップし、市長の要請があればただちに調査に応ずると明言しました。
 第二に、道議会では、われわれの、保存を前提とする調査の陳情が満場一致で三月に採択され、道教委も調査の用意あり、予算もつけると明言したことです。
 第三に、日本建築学会が、今年の一月に道知事と市長に対し、「小樽運河とその周辺の歴史的建造物は保存する価値が極めて高い、保存すべきだ、今の内に全面的な調査をしなさい、なんなら学会で調査をしてもよい」という具体的な要請書を提出したことです。
<昭和51年 『小樽運河保存の運動』>〜
 しかし、結果的に小樽市はそれらの要請を却下した。

第1回ポートフェスティバル事前許可
 昭和52年のビート・オン・ザ・ブーンを経験し、自らの祭りを主催しようとするメリーズ会合が、ポートフェスティバルの発端である。この会合には、運河清掃活動の部隊となり、山口のメリーゴーランドに集っていた若者も、フォーク仲間を引き連れて参画、佐々木(一夫)の叫児楼に集っていた若者は、ロックやブルース仲間を引き連れ参画、ここにハビタを加えて、およそ20人くらいの会合であった。
 以後、何度かの会合で短期決戦で前人未踏の企画準備をしなけらばならない。
 運河のシンボルであった艀をビアホールとして使いたいという案から、山口が手宮で酒屋をしていた三浦商店の三浦 始氏に依頼し、野中回漕店を通じ北日本倉庫と話がつき、艀借用が許可された。そして同年にハビタが使った前野商店麻袋倉庫も借用可能になった。
 さらに原田らは手分けして運河周辺の地先関係者に挨拶に回ったが、なかには「なんで俺の会社の前でそんな騒がしいことをするのか」と文句をつけられ、シブシブ了解をとりつける場面もあったという。
 一方企画部長となった岡部は、様々なロックの音楽仲間に声を掛け、2日間のステージプログラム調整に動いた。
 会場となる運河周辺の道路は、山側が道道、海側が市道(港湾管理者である小樽市の管理)であったことから、道路占有許可が必要だった。この折衝に当たったのが大谷と笠井 実氏と原田である。運河会場を借りる許可手続きは、北海道土木現業所がその要請をうけ、小樽市土木部・小樽市教育委員会・小樽市港湾部・小樽警察署・小樽市消防署などの関係機関に招集をかけ、その認可を検討する。再三にわたる図面の調整に四苦八苦し、最大のネックは「何か事故が起きた場合」の責任所在であったが、大谷の「俺が責任をとる」の一点張りに、今日では考えられない「黙認」を得てしまうのだ。
 また「何故運河周辺なのか」と質問され、「運河は我々小樽人にとって海のシンボルで歴史的なポイントだ」という一問一答がなされた。聞く方も答える方も、これ以上でもなくこれ以下でもなかった。こうして本番2ヶ月前の5月に道路占用許可が下りた。

企画
 これで舞台装置である運河周辺の会場の許可が一段落した。次は企画である。艀は全部で9艘を3艘単位でつなげて一つの会場とし、それぞれ側をコンパネで囲って落下を防ぎ、ビヤホール、イベント、フォークソングステージとした。ビアホールに際しては手宮の三浦商店に依頼し、出店者を依頼、イベントとステージは実行委員会内部のスタッフが自ら企画を担い運営ということになった。
 原田は屋内ステージとして前野倉庫の他に海猫屋の2階使用を交渉し、そこで短編映画の上映が決まった。原田は映画に関しては小樽では類を見ないマニアであった。税関跡地のメインステージも岡部や大谷が参画し、2日間のステージプログラムができていった。