小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalwまちづくり運動から学ぶ(7) ポートフェスティバル

まちづくり運動から学ぶ(7) ポートフェスティバル

石井 伸和


出店の模索
 今日、よくみかけるフリーマーケットなどという事例が全くない時代である。そこで実行委員会がまず手さぐりで依頼したのは、地元の露天商であった。山口が手宮で名を馳せていた手宮同志会の安田誠静也氏を通し、その兄弟分である北海道両国屋小原三代目秋川信雄親分宅に一人で出向く。昭和53年春の日曜日であった。姐さんと子分三人でスキヤキを食べているところに訪問し、出店を依頼したが4時間の交渉の末、「大旗・中旗ならともかく、わけのわかなない小旗には出られない。せめて中旗になってから協力する」と断られてしまう。旗の大きさは祭りの規模をいい、札幌祭りレベルが大旗、潮まつりレベルが中旗とされていた。
 こうしてすっかり穴のあいた出店をどうするかで責任ある立場にあった原田は、「いったい誰にどうお願いすれば」と悩むのだ。原田が時間の迫っている中でまず動いたのが商店街だった。約100軒くらいお願いに回って20軒ほどが参加、次に叫児楼の隣で骨董屋を営んでいた戯屋留堂店主川内春樹氏に依頼したところ、骨董ネットワークで12軒の参加が決まった。次に思いついたのが、原田の知り合いを通して趣味で様々なものを創っている個人への依頼であった。そしてこのルートでなんと30人が参加を決定する。そして最後に飲食関係者に声を掛け、10人ほどが参加を決めた。
 これで80軒以上の参加者により、約100コマを埋めることに成功、あとはそれぞれの辻に実行委員会スタッフによる管理店として、金魚・綿菓子・ヨーヨーの店を配置した。

21歳 若き日の筆者
21歳 若き日の筆者
手さぐりの活路
 露天商に断られて祭りに欠かせない出店者の大穴、実行委員会からすると死活問題、しかし既成概念から脱して、代替のイメージを頼りに手さぐりで関係者を説き、整えられた出店の原風景は、明らかに今日のフリーマーケットへの嚆矢となった。
 小樽らしい骨董店軍団、商店の在庫品一掃セール、趣味制作の一大発表の場、飲食業の参加、全てがイベントとしては初めての経験であった。
 イベントにかかわらず、今日成功をおさめている多くのビジネスは、こういった死活問題の岐路に立たされ、手さぐりの模索を体験している。決して展望や計画が難なく進められたわけではない。まして小樽の運河保存の運動には見本がなく、そこに関わった人々の無私の汗と智恵で道を切り開いてきた。

旧税関跡地で開催のメインステージの観衆(写真提供:志佐公道氏)
旧税関跡地で開催のメインステージの観衆(写真提供:志佐公道氏)
手づくりの設営
 さてこうして舞台の確保・キャストが整い、あとは仮設の大道具・小道具の設営である。この現場を指揮したのが大谷である。本番10日前から旧税関跡地にテントを張り、泊まり込みで設営作業をする。このとき既に大谷は勤務先への辞表を用意していた。資金がないから全てシロウトのスタッフで設営しなければならない。まして認可の際に公的機関に対し「俺が責任をとる」という大見栄をきったその覚悟でもあった。因みに大谷はこの年の7月末に会社から解雇されている。
 設営は安全な明るい日中に限られたため、スタッフはみな交代で勤務先に単発の休暇を願い出てローテーションを組んで、毎日コツコツと設営の現場作業に参加した。メインステージとなる旧税関跡地の設営にはじまり、電気工事の足場調整工事、運河に浮かぶ艀への歩み板設置、ゴミ箱の設置、通行止めバリケードなど細かい作業は数え上げれば切りがない。さらに資材は全てレンタルで、飛島建設の子会社からコンパネはじめビデ足場・タンカン・クランプ・歩み板などを、また当時緑町にあった武田建設からコンパネ200枚、北海道工業大学からも出店用コンパネ100枚を借りにトラックを走らせた。
 この運搬に使った4トン半トラックを志佐公道氏が運転したが、札幌の荷物は8トン近くあったという。結果的に札樽バイパスの若竹付近でバーストし大惨事には至らなかったものの冷や汗からがらだった。またコンパネ運びの際に小樽郵便局のカーブでコンパネがズレて全て路上に散乱するというハプニングが起きたが、これも付近に車も歩行者も偶然いなかったことが幸いした。いま思えば重量計算や積荷のシバリ方を知らないシロウトでは済まされない。神が身方したとしか思えない。この危機感は運転をしていた志佐に、徹底した現場管理志向を染みこませる転機となる。
 夜になるとスタッフの女性陣らがこぞって食事の準備に精を出してくれた。これを仕切ったのが北田聡子氏であり、以後のポートフェスティバルの番頭役となる。

北樽路の団扇屋
北樽路の団扇屋
北樽児
 昭和53年に帰郷した私は、地元に残っている出身校の桜陽高校時代の友人らと共に、散らばっている友人へ「北樽路」という名の機関誌を発行していた。ノスタルジーは懐古を意味する英語だが、北は英語でノース、樽はそのままタル、北の街小樽の路ということで路をジーに当てた造語を機関誌名とした。
 そしてもう一人の編集者であった美濃 進氏が街で得た情報「今度運河で祭りがあるそうだ」と知り、「俺達も参加しよう」と提案し、北樽児スタッフでオリジナルの団扇を作成し参加を表明。四国から団扇の骨にあたるプラスチックを仕入れ、オリジナルデザインで印刷して型抜きした紙をスプレー糊で貼り合わせ、華道で使うフローラテープで輪郭を整えた。シロウトの手づくりなので当然ゆがむ。「ゆがんだ団扇でゆがんだ風をどうぞ」ということになった。

小樽倉庫前の艀を借景とした祭り風景(写真提供:志佐公道氏)
小樽倉庫前の艀を借景とした祭り風景(写真提供:志佐公道氏)
第1回 ポートフェスティバル・イン・オタル開催
 昭和53年7月8日・9日の土日に第1回ポートフェスティバルインオタルの幕が降ろされた。両日とも晴天。
 一出店者であった北樽児の興奮で読み取れるほど全体は活況を呈した。団扇が初日で完売し、徹夜でさらに同じ数を仕込んで、2日目も完売。今思えばそんないかがわしいものがよくも売れたと感じるし、ゆがんだ手づくりの団扇が売れるほど、来場者は物珍しげに買ってくれた。
 ロックやブルースやフォークというとりどりの音楽が鳴り響き、100コマに軒を連ねた出店では今までの祭りでは見たことのない品物が並び、訪れた小樽市民をはじめとした来場者で運河沿いの会場は立錐の余地がないほどに埋め尽くされた。スタッフも来場者もこの現象に興奮し陶酔した。スタッフは上半身裸や、日焼けした肌に独自の印半纏を纏い、マイクロホンでかすれた声で号令をかけながら会場の人並みを縫うように管理に追われた。
 大谷はかつて骨董屋から購入した○にキ印の印半纏で「キチガイ」の「キ」を表現し、佐々木(一夫)は独自に○に狂印の印半纏でもちろん「狂人」の意を表すなど、志の表現にファナティックに燃え、それぞれの纏いコスチュームも賑やかさと新鮮さに彩りを添えた。
 原田は出店の電球の準備や、資材の不足を補うなどでテンテコマイのかたわら、本部テントに戻ったときに、事務局や会計の管理をしていた北田に呼び止められ、「なんでこんなに来るの」と茫然自失の状態で問いかけた。原田も「わからん」という意味不明の会話を交わしたという。そして丁度海に夕陽が沈んでいく借景とともに、今も忘れられぬ光景だったと語る。
 さらに当日の盛況によりスタッフの人手が不足し、誰彼ともなく、知り合いを見かければにわかスタッフを依頼する寝技まで駆使された。

大家倉庫前の艀を借景とした祭り風景(大家の両側の倉庫はいまはない)(写真提供:志佐公道氏)
大家倉庫前の艀を借景とした祭り風景(大家の両側の倉庫はいまはない)(写真提供:志佐公道氏)
仕掛け
 本部は大家倉庫前に設置され、その隣には小樽運河を守る会が陣取った。そこでは峯山会長をはじめとした会員たちが声高らかに「運河保存にご署名を」と呼びかけ多くの成果を上げた。小樽の若者たちが模索しながらこのような賑わいをつくり、音楽やフリーマーケットなどの企画を通して、運河という場所のポテンシャルを高めたことに、多くの市民は驚きを隠せなかった。
 出店では、プロの露天商にはない「ひやかし」も楽しい風景となり、中には知り合いだけで完売する店も続出した。旧税関跡地のロック会場と艀のフォーク会場でのコンサートでは、爺さんが孫の手をひいて共に音楽に合わせて足で拍子をとる風景が現出した。
 小樽斜陽の象徴とされ、沈没した廃船と空の倉庫が並び、誰も足を踏み入れなかった運河が、水辺と倉庫と磯の香り漂う中に若者が走り回り、多くの市民でごったがえす場所に変わった。
 名も無き小樽の若者たちが主催した祭りに、当初予想の6,000人を遙かにしのぐ10倍を超す80,000人ほどの来場者を記録した。この日を契機に、小樽運河論争は日の目を見るようになっていく。それまでは運河について語ることは、むしろタブーとされた風潮があった。

旧税関跡地のメインステージ(写真提供:志佐公道氏)
旧税関跡地のメインステージ(写真提供:志佐公道氏)