小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(9) 第一回ポートフェスティバルインオタル総括

石井 伸和




ポートフェスティバル総決算
 無一文で始めたこの祭りの予算は約470万円。これに対し、ビアホールの収益210万円、出店からの場所代100万円、広告や商品販売で150万円、同年6月に開催した北海道の環境を考える会(ハビタ札幌)主催のシンポジウムで得た助成金から30万円の倉庫事業費を足して、結果的に20万円の黒字となった。
 もし2日間のうち1日でも雨にあたれば、出店の売り上げもビアホールの売り上げも大きく落ち込み、一気に赤字になった。以後実行委員会の中に赤字に対する覚悟として「一雨300万円」という俗諺がつくられるほど雨は脅威になっていく。
 また、よりによって当日、竜宮橋と中央橋の間の運河に死体が浮くという事件まで起きた。警察の出動によって収拾はしたが、万が一赤字であれば、第二回目のポートも果たして実施されたかは疑問だ。それほどリスキーな出来事だった。

詐欺?
 ポートの成功により、タブーであった運河問題は小樽の市井のここかしこで大いに議論される話題となった。井戸端会議で、飲み屋で、会社内で、営業の会話に、運河の話題は一人歩きしていく。この社会現象を「まさかこんなことになるとは」と苦々しく思っていた人々もいた。道道臨港線早期完成促進期成会を組織する小樽市や商工会議所の関係者たちである。既述の運河会場の占用許可でもふれたが、安易に認可を下したことに悔やんだはずだ。なぜなら純粋に若者の海の祭りといった要請としか見なかった。しかし「運河はこんなに人々が集まりますよ」「こんな新たな使い方ができますよ」という主張にくわえ、運河を守る会が堂々と署名活動をする場になっていたからだ。逆に埋立推進の立場からその署名を集めようとする出店申込があったとしても、多分実行委員会は拒まなかっただろう。運河について考える場を提供することが主旨だったからだ。
 埋立派が苦々しく思った最大の原因は、80,000人に及ぶ市民で賑わった事実である。新聞やテレビもこれを大々的に報道した。静かに斜陽に佇んでいた小樽で、このような爆発的な賑わいは充分報道に足る出来事であった。つまり80,000人の市民参加は充分にパブリックを担保したのだ。ということは主催者にしてみれば、結果的に80,000人という市民が参加した集会というポジションを獲得した。したがって認可を下した公的機関は以後、この公的な存在に認可を下し続けなければならなくなる。
 これはまさに市民が起こした愉快で壮大な詐欺行為ともいえる。本物の詐欺師とは、騙された人々が騙される以前より幸福を感じるようにすることだという映画の台詞があるが、事実、腫れ物に触るように黙して語れなかった運河の話題を、小樽市民が笑顔で運河について堂々と語る幸福を得たことを思うと、その大胆さには驚くばかりである。

第1回ポートフェスティバル実行委員会(主だったメンバー)
 実行委員会は何人かのキーマンがそれぞれの人脈で仲間を集っていった。
●叫児楼
 佐々木一夫(当時叫児楼代表 現在運河プラザ喫茶)
 岡部 唯彦(当時札幌大学4年、現在Air-G営業本部長)
 渡辺真一郎(当時内外設備 現在NTT電報配達請負)
 佐々木恒治(当時メリーズフィッシュマーケット代表 現在北海道マイクロエナジー代表)
 及川 良樹(当時楽器 現在中央バス観光商事)
 松橋 敏幸(郵便局)
 志佐 公道(写真家)
 大谷 勝利(当時内外設備 現在大谷営繕代表)
 草野  治(当時内外設備 現在殖産職員で美深で農業)
 北田 聡子(当時北海道通信電設 現在無職)
 広瀬 一郎(当時内外設備 現在広瀬設備代表)
 西條 則英(当時近藤硝子 現在福祉関連)
 原田 佳幸(当時マッチBOX店主 現在サントチェーロ店主)
 滝沢  裕(当時NTT 現在北海道テレマートコールセンター長)
 太田 善之(当時無職  現在モダンタイスム店主)
 鳥畑 博嗣(当時北星大学 現在北海道カヌー協会スラローム委員長)
 遠藤友紀雄(当時朝陵高校3年 現在渇涛。商店代表)
 白沢 桂子(当時片倉チッカリン 現在佐々木一夫夫人)
 小田 悦子(当時北一硝子 現在神代順平夫人)

●メリーゴーランド
 山口  保(当時メリーゴーランド店主 現在小樽市議会議員)
 中  一夫(当時越前電気 現在北海道新聞中販売所代表)
 笠井  実(当時河合工務店 現在朝日新聞販売員) 
 斎藤友美恵(当時双葉高校 現在笠井夫人)
 坂本 和雄(坂本造園代表 故人)
 吉岡 雅美(当時札幌大学学生 現在且D幌メールサービス プロデューサー)
 天下 善博(当時玉光堂 現在京都の聾学校)

●ハビタ
 駒木 定正(当時美唄工業高校 現・北海道職業開発大学校)
 狩谷 茂夫(当時設計事務所勤務 現・亀AC一級建築士事務所所長)
 山之内裕一(当時設計事務所勤務 現・山之内建築研究所所長)

後かたづけ
 公共の場所を借りたイベントの後かたづけの苦労は、それに従事した者しかわからない。最終日曜の夜11時くらいにお客がひけ、まずトラックにスタッフが乗り込み、会場全体のゴミ収集をすることからはじまる。特に出店の中の飲食店には、食べ残しも多数あり汁物には手をやく。持ち上げた途端、その汁を全身に浴びることもしばしばだ。次に造作物の撤去作業だが、これが最も労力を伴う。各自がクランプを持ち、ビデ足場の解体、ステージの解体、バリケードの解体など全ての解体が終わった段階で、全員が二人一組となって足場やコンパネを一箇所に運ぶ。会場の各拠点にはトラックで巡回して収集する。
 電気関係は越前電気のスタッフが撤去と電線回収を手際よく少人数で行い、音楽ステージの音響関係は札幌の会社委託なので彼らもまた同時に回収作業を行う。
 あとは細かなゴミ拾いを全員で回り、終える頃は月曜日の会社出勤の時刻を迎える。今度はレンタル資材の返却という最後の肉体労働が待ちかまえている。飛島建設や北海道工業大学への返却には、トラックとスタッフの車に男全員が乗り込み、札幌へ向かう。北海道工業大学は三階の資材置き場まで返却しなければならず、全員ヘトヘト状態。残った女性スタッフは、会場に集められたゴミを収集する業者を手伝い、最後の食事の準備をする。
 午後、返却部隊がトラックを返却して戻り、凱旋の雄叫びがあがり、全ての後かたづけが終了。汗と汁ものの臭いをプンプンさせ、疲れ切った顔には爽やかでホッとした笑顔が浮かぶ。全員で女性スタッフが用意してくれた食事を掻き込み解散となる。男達はそのまま市内の風呂やサウナに四散していく。祭りの現場には当日200名を超す若者が駆けつけるが、後かたづけは約80人で行う。
 しかしこの後かたづけの段取りが成立するのは2回目以降であった。初回には誰もが興奮の余韻と安心を得て、三々五々帰宅してしまい、あとに残ったのは大谷・原田・志佐公道氏くらいという有様。何人かに毎日電話をして助っ人を揃えたりしたが、結局一週間もかかった。この三名は約20日間も長期テント泊をしたことになる。