小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(10)

山さん、恒治さん
石井 伸和



北樽児の山口取材
 私らが発行していた機関誌「北樽児」で、第1回ポートフェスティバルに参加した際に、私の印象に残っていた山口 保(以下山さん)氏を取材するため、彼が経営していた手宮のメリーゴーランドという喫茶店へ出向いた。
 あれから34年経過した今振り返ると、この頃から既に山さんには、グローバルな視点で地域を観るスケールや感性が備わっていた。「なんで運河?」と聞くと、「ゴダールって映画監督知っとるか。彼は時代に機能していない風景や言葉を、様々なシーンに使っとんのや。僕にとって運河をはじめとして小樽全体が、そんなシーンの吹きだまりに見えたんや。機能しないということはホッとする景色やな。ここでしか人は心を開かんもんや。ってことは小樽は心を開ける街なんや。埠頭で港湾荷役している隙間を通って埠頭の突端で釣り糸を垂らす風景なんて普通ありえんやろ。政治と経済の隙間を文化が堂々と歩いていくんや。カッコエエやないか」
 斜陽と言われて久しく、高度経済成長にも乗り遅れ、急成長する隣の札幌に誰もが萎縮していた時代に、「そこがいいとこや」と言われて、当時はよく理解できなかった。いま思えば、東京の高層ビルより小樽の倉庫のワビサビた風景に魅力を感じていた私の思いを、グローバルな視点で詩的に通訳をしてくれたことになる。そう考えて「おもしろい!」と思った。しかしゴダールの映画は全くつまらなかった。台詞のひとつひとつに蘊蓄はあるとは思う。だから映画より書物にした方が消化できると思った。蘊蓄が重すぎてストーリーを追えず、字幕映像の切り替えが早すぎて蘊蓄すらも味わえない。忍耐で見追えても、結局何を言いたいのかがわからず仕舞。ジャン・リュック・ゴダール、フランスの映画監督だが、どうもフランス文学は詩的過ぎて面倒くさいと正直感じた。逆にこれを解読する山さんはすごい。充分な論客である一方、デザインやセンスにこだわるもうひとつの山さんの顔を感じた。この説明不要の感覚の分野にも研ぎ澄まされた仕込みがある。
 ともあれこれを機に、私の山さん詣は開始されていく。

山さん詣
 以来、私の「山さん詣」はほぼ毎日のように繰り返された。家族や仕事仲間といるより山さんと一緒にいる時間の方が間違いなく多くなった。自分がこれから進もうとしている道の所々を照らされるような、ユニークで明るい希望がそこにはあった。
 人に対してそもそも先入観を持たぬ私は、山さんの独特な関西弁も提唱する内容も、鋳型に溶け込む液体のように淀みなく流れ込んだ。小さな子どもを二人抱え、奥様の信子さんはいつも快く挽きたての珈琲を出してくれた。心で反芻させる山さんの話の粘着性は、喫茶メリーゴーランド定評の納豆スパゲティのせいだけではない。むしろ貧乏所帯といってもいい、下町の実践哲学者の風景はいつも明るく希望が宿っていた。

恒治さん詣
 昭和53年のポートフェスティバル終了後、静屋通りを歩いていたとき、叫児楼の佐々木興次郎(以下興次郎)氏に声をかけられ、「あなたも小樽の人なら一緒に祭りを」と誘われた。祭りの興奮の惰性で「ハイ」と返事をしてしまい、以後、叫児楼には何度か足を運んだ。ここで佐々木(恒治)氏を紹介されると、今度は好奇心が倍増し「恒治さん詣」の開始となる。
 第1回目のポートフェスティバルの印刷関係は恒治さんが経営するメリーズフィッシュマーケットでシルク印刷されたが、2回目以降は私の母が経営する石井印刷でといわれ、仁義を通すつもりで訪問した。ただしこの年は私は札幌の「ほるぷ」という図書の販売会社に勤務し、翌54年5月に石井印刷に入社する。
 さて恒治さん詣は、もちろんこれまで記した彼らの背景も知らぬままで、山さんと恒治さんが同期とも同窓とも知らずにである。
 恒治さんが語ってくれる話は、私の好奇心の枠をいつも広げてくれた。文化、哲学、経済など、「たとえば石井はな」と極めて身近なことに例えて、わかりやすいように解説してくれた。通訳がうまいのはそれだけ表現力が豊かな証拠である。
 ちなみにこれは私感だが、山さんの説明は時々感性用語が混じってマジックにかけられる。もちろん私自身快くかけられた。恒治さんの説明は聞く側の立場で理屈で通訳する。どっちがわかりやすいかといえば間違いなく恒治さんだ。しかしどっちがリアリティがあるかといえば間違いなく山さんだ。人間は理屈だけの生き物ではないし、なによりも実践で山さんは証明してくれた。
 メリーズという恒治さんの根城にたむろしていると、ときどき友人である電通本社の副社長なる人物から電話が鳴り、メモをとる恒治さんがいた。そして決まって翌日恒治さんは私に電話をくれ、ワープロで打ってくれないかとA4判1枚千円のアルバイトをくれた。正直その直筆がうまいとはいえず、たぶん解読し慣れた自分しか読めないのではないかと思うような手書き原稿を何度も入力する体験をした。内容は電通に依頼された様々な企画書であった。私はパソコン以前に普及したワープロを所有し、独学で学び入力まではとりあえずできたからである。
 この時代から34年過ぎ、現在の私のパソコンには何百という企画書が眠っているが、すべて換金され、1億円近い借金の返済の元となった。企画の視点・企画の立て方・企画書の書き方などを恒治さんの口を通して教えてはもらわなかったが、まるで盗んで学ぶように吸収させていただいたし、今も感謝していることを自白しておく。
 また昭和50年代に、「月刊おたる」に寄稿した恒治さんの詩は、全く理解できなかった。どうもこの世代は面倒くさいと感じたが、言葉のリズムや印象が残るのは、まさかここにもゴダールがと頭をもたげたことも想い出される。
 いずれにせよ、私にとって恒治さんは知的好奇心や知的興味を満たしてくれる大きな存在であった。

私の運河保存運動
 私にとっての運河保存運動の大半は山さんのシナリオでいかに踊るかだったといっていい。タブー視され、アンタッチャブルでアバンギャルドであった運河保存運動がポートフェスティバルによって、一気に明るいテーマとなり、普遍的となり、まるで地域の公的な問題が個人の側にまで降りてきてくれたかのような身近さを醸した。これが突破口となり、私は金魚の糞のようにいつも山さんの後に控えていた。
 約6年間にも亘る戦いの中で、度重なる保存派の苦境を、ただ悔しがっていた私たちに、山さんはいつも新たなシナリオを示し、「それいけるかも」と奮い立たせてくれた。どうしてそんな画期的な発想が沸くのか不思議でたまらなかった。山さんには何度も叱られたし教えられたが、「行政に依存するな!自立した市民なんや!」「田舎が都市を驚かすんや!」「都市を超える田舎はセンスの問題や」「評論を鵜呑みにせずお前の意見を持て!」「言っとることがわからなけりゃ聞きに来いや」「お前は経済界を説け。キーワードは観光や!」といった語録は今も新鮮だ。
 山さんはシナリオライターであるばかりか、先頭を切った武闘派でもあった。その後に控えていた私は何度もヒヤヒヤする場面に出くわした。青年会議所との討論で「それでも若者か」と机をひっくり返し、市長室での談判で「なぜ約束を守らないのか」と市長の机を蹴飛ばした。権威や組織を恐れず、涙が出るほど純粋な武闘に、何度命を賭けてもと思ったかしれない。
 奇しくも私は、恒治さんから生きる世界を、山さんから生きる知恵や勇気を与えてもらったといっても過言ではない。