小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(11)

夢の街づくり実行委員会
石井 伸和


夢街バザール 小樽国際ホテル2Fロビー
夢街バザール 小樽国際ホテル2Fロビー

叫児楼のキャンプ
 昭和53年8月、恒例の叫児楼主催による蘭島キャンプは、ポート実行委員会キャンプの様相を呈した。約40人くらいのポートの仲間が勢揃いした。誰もがポート体験でのプラス・マイナスの両方の感想を抱いていた。マイナス面では「組織の呈をなしていない」「セクト意識が強い」「次から次に小さなアクシデントがおきる」、プラス面では「俺達が社会を動かした」「こんな現象は全国でも珍しい」「こんな興奮は今までの人生にはなかった」など多岐に亘った。
 それぞれの感想に対して、「だからこうしては」「それならこうしよう」という改善案も多く提起された。つまり得たプラスに比べると生じたマイナスは「どってことない」という気持ちを40人が共有していた。そして極めつけは石塚の持ち出した事例「水取り山」の実話だった。

水取り山
 伊豆大島の一番大きな町・元町が大火災(1965年)にあい壊滅的状態となり、政府は災害救助法を適用した。政府が災害直後の応急的な生活の支援策を提示しようとしたとき、島民が「いの一番」に望んだのは、そんな一方的支援策なんかじゃなかった。
 島民が皆で集まって話し合って出したのは、まず「自らの力で三原山の砂漠地帯に『水取り山』(=溜め池)を建設する」と、いうことだった。
 慢性的な水不足解消もあったが、住民が自力で建設する町民全体の「水とり山」を作ること、それこそが、町民がどんな復興策よりもまず望んだことだった。できあがる「水とり山」をまず町民自身がイメージし、それに向かって、皆で纏まることで自力で建設するって。自らの力で水とり山をつくる、それは、自らの地域を、自らの手でつくり上げてゆく哲学であっただろうし、そもそも水とり山という場がもつ根源的な力を再発見することであっただろうし、他人の手による復興策ではなく、島民の手になるまちづくり、だったのだ。
 そこにあるのは、機械力より多くの雑多な人々の力であり、知識よりは知恵をつかい、速さよりは持続力であり、理性よりは情熱や思いだった。
 つまり、島民が「水とり山」という姿形に求めたものは、実は島民が纏まるためのシンボル性だったのじゃないか。政府や災害の専門家達は、伊豆大島の島民がそんな溜め池づくりを求めるなんて想像もしてなかった。一方、政府が支援してくれるというメニューにたかるんじゃなく、皆が今こそまとまることを優先した島民の凄さがそこにある。
 では、小樽の人にとっての水とり山ってなんなんだろうか。小樽運河こそが小樽市民の「水とり山」、・・ではないか。それをポートフェスティバル自らが、明らかにしたんじゃ・・ないのか。機能面で時代遅れの港湾設備から近代的道路になるより、これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの依って立つ根っこが、小樽の「水とり山」・小樽運河なんじゃないのか。

保格ライン
 誰もが聞き入ったこの話に「我が意を得た」のは山(山口 保)さんと格(小川原 格)さんだった。運河という公的な眠れる地域資源に、市民一人一人の人生のなにがしかを投影する意識だった。もっといえば、便利ならどこに暮らしてもいい「住民」ではなく、小樽でなければならない「市民」の誕生だった。そしてポートはそれを実社会の中で証明した。だからそんな市民たちが生きている場所を広めるためにもやり続ける、これが石塚の話を受けて感じた山さんと格さんの総括だった。
 もちろん誰も異を唱えない。むしろ、予想だにしていなかった自己が湧出してくる爽快感に酔った。格さんのいう「依って立つ根っこ」が心と心を繋いだ。
 保守や革新、自民や民主といった既存の政治でもなく、数値や量による判断でもなく、「生きようとするに足る意識を地域に投影」できた。
 そして結論は、「そういう夢をもっと多くの人々とも共有したい。そのためにも俺達のイメージする新生運河をどんどん発信していこう」という展開で一致し、ポートの継続が約束された。
 この方向性は山口 保の「保」と小川原 格の「格」をとって「保格ライン」といわれた。

小樽夢の街づくり実行委員会
 昭和53年秋、ポート実行委員会の主だった約20人が、静屋通りの蕎麦屋籔半の二階座敷に集った。祝津のニシン漁の親方御三家のひとり白鳥家別邸として明治42年に建てられたこの建物の二階は、ボールを置けば転がるような傾きを呈し、掛け軸や違い棚などの古式が独特な風情を醸していた。そこに酒ではなく蕎麦茶と、煙草のムンムンとした空気の中で、「街とは」「若さとは」「運河とは」といった議論が交わされた。この籔半議論での結論は、前回の「水取り山」で確認した「保格ライン」を基盤に、「ポートをはじめとして自分達の運河保存再生の運営母体を立ち上げよう」となり、「夢の街づくり実行委員会」と命名した。会長に興次郎、副会長に格さんが就任し、通称「夢街」といわれた。
 夢街は資金稼ぎのために、小樽駅前にあった小樽国際ホテル2階ロビーにおいて、手づくり作品やオリジナル商品を販売する「夢街バザール」を数年に亘り開催した。男の長髪が普通の時代である。

三人組と未亡人倶楽部
 峯山冨美氏がよく口にした北大三人組は、石塚雅明・柳田良造・森下満をいうが、ポートを経験した者達の間にも「ポート三人組」が次第に鮮明になっていく。山口 保(山さん)・小川原 格(格さん)・佐々木一夫(興次郎)である。格さんが戦略、山さんが企画を提案し、興次郎が若者達を牽引し、格さんの名通訳が接着剤となりつながっていく。たとえば山さんの奇抜な提案に興次郎は心を躍らせ、若者にも伝播するが、志の温度差はそう簡単に埋められず、興次郎が落ち込むと格さんがすかさず興次郎を鼓舞する側に回るという役回りである。
 このポート三人組は後に夫婦単位での交流となり、まちづくり運動の会議や論議で毎晩家を留守にすることから、奥方同士での交流が深まり、彼女らはそれを「未亡人倶楽部」と称するようになる。

運河を守る会との関係
 ポートの成功を誰よりも評価してくれたのは、昭和53年5月に運河を守る会の会長になられていた峯山冨美氏だった。まるで母親が我が子の成長を喜ぶかのように満面の笑顔で讃えられた。石塚も山さんも格さんも興次郎もそして私も守る会に名を連ねてはいたが、ポートの山積みの課題奔走のために守る会活動はご無沙汰せざるを得なかった。「運河を守り再生する」という目的は同じだが、手法や仲間の層の違いが明確にあった。仮にポートが守る会の枝であれば、これだけの大胆さは発揮できなかっただろう。無論、石塚・山さん・格さんレベルでは峯山会長と密な連絡はとられていたことは言うまでもない。