小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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COLUMN

電気物語
編集人 石井伸和


小樽の電気
 明治以後を近代というが、近代化の契機をなしたのが産業革命である。革命と名が付くほどの大変革。人力や牛馬による動力が機械の誕生によって何十倍何百倍何千倍の生産能力を可能にした。だから明治政府は殖産興業という政策を一気呵成に進めた。ちなみにアジアで最も早く近代化を邁進した日本だったから、アジアの奇跡といわれた戦後の高度経済成長を果たしたともいえる。
 さて機械にはエネルギーが必要だ。その発端は石炭だった。北海道の幌内に石炭が掘られるようになると膨大な国費を投じて幌内から小樽まで鉄道を敷く。だから小樽は日本の近代化に大いに貢献した地域なのだ。
 次に登場するエネルギーが電気だ。火力発電・水力発電である。小樽では明治28年小樽電燈舎、明治40年小樽電燈合資会社、明治44年小樽電気株式会社という変遷を辿ってきた。この間、電力業は維持費の高い火力から水力へ(水主火従)のシフトが課題となり、小樽電気株式会社がこの転換に大きな働きをした。

電気事業の系譜
 日本初の電気は明治15年東京銀座のアーク灯。明治19年には東京電燈株式会社が誕生。大正10年ころには五大電力会社が全国の8割近いシェアを握る。戦後の昭和26年(1951)年、GHQの命令で九電力体制ができ今日に至る。
 さて日本の電気事始めは、安政4年周防・岩国藩の下級武士の家に生まれた藤岡市助の志に起点を発する。
教師として英語に達者だったことから産業革命の変遷にも詳しかったのだろう。「これからは電気の時代になる」と確信。藤岡の電灯事業構想に、東京貯蔵銀行設立頭取、大阪で紡績会社設立の矢島作郎が共鳴し、明治15年、 東京電燈会社を設立申請。このとき初めて『電灯』という言葉を使った。その直後、同じような計画で日本電燈会社設立願いが出された。大倉組商会社長の大倉喜八郎らによるものであったが、財界のリーダー渋沢栄一が間に入り両社の設立計画を一本化、東京電燈会社として申請を出し直すことになった。こうして明治15年(1882)11月1日午後7時30分、2000燭光のアーク灯が、銀座二丁目の大倉組前に点灯した。 東京電燈の資本金は20万円。株式引き受けが完了するのは19年5月で、20年から電気の供給を開始した。エジソンが世界で始めて、ニューヨークのパール街に火力発電所をつくり付近の需要家に白熱電灯で電気を供給し始めてから、5年後である。
<志村嘉一郎『電気事業起業家と九電力体制』>

北海道の電気
 北海道に初めて電灯が灯ったのは明治24年札幌電燈舎の電気事業開始による。同舎を設立したのは後藤半七。札幌に続いて、小樽電燈舎(明治28年)、函館電燈所(29年)、旭川電燈合資(38年)、釧路電燈合資(40年)などの電気事業会社が、道内に誕生。
 北海道で特徴的なのは製紙会社による工場用の発電で余った電力の売電であった。富士製紙や王子製紙である。王子は発電事業に小樽電気、帝国電燈などを吸収して大正15年に北海水力電気を設立。

寺田省帰
 北海道の渋沢栄一といわれた寺田省帰は安政4年生まれ茨城県相馬郡井野村出身、教師畑で育ち明治17年京都府立高女教師時代に北垣国道に出会う。北垣は明治24年に日本水力発電第一号として、琵琶湖の水を京都まで引いた琵琶湖疎水の立役者で、発電所建設には東京電燈技師長の藤岡市助が協力した。北垣は榎本武揚とともに明治5年の土地払い下げにより、小樽の稲穂20万坪を購入している。明治25年には第4代北海道庁長官に就任。
 北垣に師事した寺田は小樽電気の専務として苫小牧の王子製紙と折衝し、日本最長の89‌kmの長距離送電線を架設し、水力発電の電気を小樽に初めてもたらした。
 さらに寺田は、北海水力電気、旭川電気、小樽銀行、製油株式会社、小樽貨物火災保険株式会社などの取締役となり、大正3年には電気館社長となり、「事業の鬼」といわれた。
<脇哲『小樽豪商列伝』>