小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalwまちづくり運動から学ぶ(15)

まちづくり運動から学ぶ(15)

個人的動機と社会的展開
石井 伸和


第1回小樽運河研究講座 ポスター
第1回小樽運河研究講座 ポスター

取材
 ポートフェスティバル効果は全国を駆けめぐった。「小樽市民は行政にNOを突きつけた」「小樽がなんか騒がしい」「いま小樽で何かが起きている」「小樽運河とはそんなにいいものか」「道路を歩行者天国に」そんな風潮がマスコミ報道を見て駆けめぐった。
 公共事業ウエルカム、それを引き込む族議員の台頭、御上と中央にコネを、そんな時代に地方の若造が、これまでの方程式とは全く違う次元でダイナミズムの核になっていることが全国的な話題にもなった。
 年が明けて昭和54年の春、ある出版社から連絡が入り、ポートを取材したいという申込がきた。取材者は著名なジャーナリスト ばばこういち氏(2010年77歳で逝去)である。なにも知らずに宣伝部長に任命された私が応接役となった。今はなき小樽国際ホテルの2階広場で待ち合わせた。白髪でやせ形で物静かなばば氏は多分当時44歳くらい。取材内容の「いつどこでだれがなぜなにをどのように」という常識も全く心得ていない22歳の私は、その中の「なぜ」という部分で詰まってしまった。
 全国に鳴り響いた祭りの宣伝部長がそれを心得ていないというところに、鋭く噛みつかれた。悔しくて情けなくて泣きそうになったことを覚えている。山さんや格さんなら淡々と応えられただろう。若者が「生きようとするに足る意識を地域に投影」し、そのシンボルが「運河」であり、その運動を「まちづくり」といい、そこから「地域の経済や文化や政治を再構築していく」と。自分が責められるならいいが、ポートの評価が下がるのは耐えられなかった。が、結果的にばば氏をがっかりさせて後ろ姿を見送るしかなかった。 
 このばば氏の取材内容が何かの媒体で公表されたかは結局確認できなかった。いや確認するのも怖かったというのが正しい。

情報
 間もなく、ばば氏の取材で味わった悔しさを栄養にするきっかけとなる出来事が起きた。この年昭和54年の5月には親が経営する石井印刷に入社し、なにはさておき仕事確保人員として様々な会社に営業に回った。ある札幌の広告代理店に何度も顔を出し、何とかささやかな受注にこぎ着けることができたが、それまでのプロセスや発注時の発注者の態度の横柄さに辟易した。というより、結果的には胸ぐらをつかむほどの喧嘩をし「ふざけるな!」と仕事を蹴ってしまった。何ヶ月もの営業努力を台無しにしてしまう。
 商売人として相応しくない対応をしてしまった。そして我が業界が如何に社会の下層に位置しているのかを実感した。下請けに甘んじることなく自立しなければと決心した。広告代理店は「ニーズを仕事に換える能力を持っている。自分もそれを学ぶしかない」と考え、マーケティングの本を2冊買い、かつ図書館通いも極めた。その学びの中で、ふと、ばばこういち氏が質問した「いつどこでだれがなぜなにをどのように」という5W1Hの意味が見えてきた。
 いわゆる「情報伝達の体系」である。情報発信する側にこの体系がしっかり見えていないと、単なる流行への便乗でしかなくなると悟った。しかも「なぜ」こそがその本質であることも知った。しかし悟りの実践が換金される価値を持つまでに以後10年も要した。恒治さんや山さんからの学びがなければ多分、10年後も、いや会社も存在していなかっただろう。

歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路。
 北海道新聞の小樽支局も運河問題の動きに注目していた。昭和54年、道新はある座談会を仕組み、そこに数名が集った。石塚雅明氏と当時小樽青年会議所理事長であった芳川雅勝氏らである。いわば今後の小樽をどう考えていくかがテーマであった。その座談会の席で、石塚が東京の日本橋で行われていた「タウン・オリエンテーリング」、つまり地域住民が地域を探索し建築や歴史や文化を学ぶという企画を提起した。
 昭和54年6月3日、小樽青年会議所が主催して「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路。」と題して、運河、博物館、川又商店、北海経済新聞社、三井銀行、日本銀行、フジモリ、水天宮、陣内写真館、図書館、公会堂など5・2qを約2時間半かけて回った。会議所メンバーが独自で編集したプログラムに沿って解説し、市外も含めて3,000人が参加した。
 小樽の街並にこれほど多くの人々が関心を持っていることに、芳川理事長はじめ青年会議所メンバーはみな驚いたという。
 さらに同年11月3日にも「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路。パート2」が開催され、1,200人が参加し、4・3q、主要建物77箇所を回った。

運河から歴史的街並全体へ
 昭和46年から48年にかけて、道道臨港線工事の延長で有幌の倉庫群が壊され、それはいずれ運河に到達するという危機感から運河保存運動は始まってきたが、「運河研究講座」や「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路。」などが行われ、次第に小樽に残る歴史的な街並全体への保存再生運動に拡大してきた。しかしこのように運動が盛り上がっても、今日に至るまで多くの失われた歴史的建造物がある。

・井淵ビル(小樽銅鉄船具合資会社 明治30年代築・平成4年解)
・金子元三郎邸(明治末築・昭和45年解)
・小樽商科大学本館(小樽高等商業学校 明治43年築・昭和48年解)
・市立小樽図書館(大正12年築・昭和56年解)
・ロース幼稚園(ロース宣教師館 明治28年築・平成2年解)
・五楽園(金澤友次郎邸 明治37年築・昭和61年解)
・倉内酒造店(大正6年築・平成3年解)
・小樽新聞社(明治42年築・昭和50年解・昭和53年北海道開拓の村移築)
・手宮駅長官舎(明治17年築・昭和51年解)
・三〼河本そば店(明治42年築・昭和61年解)
<『小樽の建築探訪』小樽再生フォーラム編 北海道新聞発行>

 これらはこの書物で紹介された記録だが、平成4年に日本建築学会北海道支部の専門家による第一次調査では、2,357棟の歴史的建造物を確認し、第二次調査において主なものとしてノミネートされた508棟を調査している。そして後年の平成21年に小樽市がこの508棟を追跡調査した結果、この17年間で508棟の約4割が消失していることが判明した。主な508棟がそれだけ消失しているなら、主でない1,849棟の消失率は推して知るべしだろう。これらは増えることなき運命を背負っている。だから可能な限り消失を防ぐ手だてが必要だ。
 小樽運河問題はこの当然であるかのような歴史的建造物消失の流れの速度にブレーキをかけ、再利用する価値を上げていく運動に展開していく契機となった。ポートフェスティバルの実績、「運河研究講座」や「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路。」、そして駒木定正氏の調査・研究から、歴史的建造物の付加価値が高められていく。学びから世論へ、世論からイベントへ、イベントが蓄積され運動に、そして市民意識の深層になっていく過程は、まさに石塚の提示した「水取り山」の小樽バージョンとなっていき、峯山さんの『地域に生きる』糧に高められていく。それはまさに小樽独自のライフスタイルといってもいい。

感覚から理性へ
 さらにこれらの歴史的街並保存運動に関わった人々の意識は、最初はむしろ感覚的な動機が多くを占めていた。峯山冨美氏が「原風景」を感じ、私も「わびさびのカッコよさ」を感じたように、あるいは昭和30年代から40年代にかけて、まだ保存運動などカケラもない時代、運河や歴史的街並に魅力を感じるのは画家や写真家の研ぎ澄まされた感性が先行した。経済的価値や文化的価値やあるいは俗に言う「地域の財産」、ましてや「観光の光」という認識などはあとの学びから芽生えた。
 私は京都の大学を出て小樽に戻ったが、友人のいる大阪の俗な猥雑さや東京の高層ビルの街並に全く反応できず、京都のような歴史的町並を自然に受け入れていた意識の延長で、運河と倉庫のワビサビた風情がなんとも粋に映った。それを「カッコイイ」と感じた。
 まさに感覚的・情緒的・そして幼稚で、理由など必要としない意識だった。それが「地域の財産」という公的価値に結びつけるには多くの学びが必要だったし、たとえば商売人にとって、サラリーマンにとって、女性にとって、子供達にとって、お年寄りにとってなど様々な視点で運河や歴史的街並を見つめることになっていった。