小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(28)

花園と小樽


松竹座
松竹座

東宝映画館
東宝映画館

小樽区土地台帳
 大正9年は全国初の国勢調査が実施され、同年9月10日発行の『小樽区土地台帳』をもとに以下記述する。
 花園の土地所有者を規模順に列挙すると、高橋直治7,417坪、山田吉兵衛3,969坪、渡辺兵四郎6,913坪、板谷宮吉3,006坪、藤山要吉2,241坪、広海二三郎1,490坪、森 正則1,359坪、猪股孫八1,305坪、相馬哲平1,236坪、野口喜一郎1,009坪、木村圓吉766坪、能島正次郎445坪とある。
 明治5年に土地払い下げで購入した榎本武揚と北垣国道の子孫が、同台帳では稲穂の土地を榎本19,353坪、北垣19,972坪所有しているのは別格として、小樽の土地所有者には小樽商人といわれた人々が数多く浮上する。
 花園が市街地化するのは大正以後であることから、商業で財を成した商人が購入したことがうかがえる。

商人
 高橋直治は小豆将軍といわれ有幌の倉庫群の多くは高橋倉庫、山田吉兵衛は山田町の祖で漁業や廻船そして生活雑貨一般、渡辺兵四郎は漁業・水産加工・精米、板谷宮吉は海運で小樽商人の横綱、藤山要吉は海運で公会堂を寄付、広海二三郎は北前船、森 正則は製紙業や文具、猪股孫八は漁業、野口喜一郎は北の誉酒造、木村圓吉は漁業と倉庫、能島正次郎は手宮の大地主で、函館の相馬哲平は異色である。
 大正9年といえば小樽の全盛期真っ只中、人口増加・商売繁盛は明確だから。土地投機も当然だったのかもしれない。

花園
 明治17年1月に「花園町」が命名され誕生。それ以前は公園と水天宮という二つの丘があり、火山灰岩の小山がいくつも突出し、交通も住居も拒否するような状態であった。しかし、妙見川や入船川の両側から住宅や店舗が伸び、当然この花園にも開拓の鍬が入れられた。まず高台の公園通りが整備され、明治28〜32年には花園第一大通り(花銀)が整備され、小樽の繁華街の地盤が築かれていく。
 小樽花柳界の元祖は海陽亭(魁陽亭)であるが、明治初期の創業者といわれている松井 某から鈴木チヨに移り長谷川勝平にまかされるが、明治29年に大火に遭う。その後鈴木チヨから営業権が他人に渡り、明治35年4月、宮松コウ(開陽亭)が購入し、現在に至るが、鈴木自らは今後発展するであろう花園橋の丘の上(現・花園交番隣のマンション)に明治35年1月5日迎陽亭を開業した経緯もむべなるかなである。いわば花園花柳界の元祖は迎陽亭となるかもしれない。大正時代から昭和初期には、東雲に北斗見番(大正7年)、妙見河畔に昭和見番(昭和2年)・同分店・という芸者の人材派遣会社ができ、花園・稲穂地区には料亭が250軒も並んだという。

花柳界
 現在では花園は商店街と花柳界を併せ持つ小樽の繁華街として定着しているが、前述の経緯があったことを思うと隔世の感を免れない。また商店街という昼の顔と花柳界という夜の顔が表裏にある構造も小樽独特といわれている。商店街には飲食店はつきもので、その延長で花柳界が形成されたかは定かでない。
 昭和54年に筆者が実際に踏査して花園地区(スポーツセンター〜妙見川)を調べた際、800余軒の飲食店が存在したが、現在ではその半分くらいになっているから、これもまた隔世の感ともいえる。

鶏と卵
 鶏が先か卵が先かの議論ではないが、人口が減少しているから夜の店も減少するのは当然だが、夜の店の工夫次第では、1日平均17,800人の観光客が来て、1,780人が宿泊している市場もあるのだから、「小樽の夜ブランド」を是非つくってほしいと願っている。

『小樽区土地台帳』『小樽歴史年表』
『小樽豪商列伝』『小樽花街ものがたり』
『三代女将が語る海陽亭』『花園町史』