小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(31)

山田町・東雲町・相生町と小樽


臨港線から水天宮の丘を眺望
臨港線から水天宮の丘を眺望

山田町の坂
山田町の坂

水天宮の丘
 小樽の町名はいろいろ変遷してきた。相生町は明治14年、山田町は明治19年と古く、東雲町は大正4年に設置されている。
「明治15年(1882年01月)/山田吉兵衛は相生町、水天宮の西、堺町の於古発川に至る道路(630間)工事に着手」と『小樽歴史年表』にあるように、山田吉兵衛は入船本通りにある土井薬品(現在更地)とJOMO石油から寿司屋通りにある滝の湯駐車場までの上り下り坂道を自費で開削した。この貢献を以て地域の人々が「山田町」というようになる。
 現在では水天宮の丘部分は山田町・東雲町・相生町の3町で構成されている。
 この3町に過去の小樽発展の段階を物語る歴史が秘められている。

海の見える丘
 水天宮は明治38年に現在の場所に移動した。小樽は明治32年に「小樽区」となり、商業港湾都市として一大発展の途上にあった。だから海運業が物流基地の基盤にあることから、海運業を核とした商業で定住する成功者が水天宮の海側に居を構えるようになる。板谷宮吉、高橋直治、名取高三郎らが代表例である。理由は居宅から出船入船が見えるからだといわれている。一方、稲穂や花園から山側はまだまだ開発途上であったことにもよる。こうしてこれら成功者が相生・東雲に居を構える。
 この海の見える丘(相生・東雲)を樽僑城下町とする俗諺もある。

港の見えない丘
 山田吉兵衛が明治15年に開削したおかげで生まれた海の見えない丘である山田町には、労働者をはじめ、職人などが定住していく。商業で始まった小樽ではあるが、商うより製造する合理性が付着していく過程だ。
 だからこの坂を職人坂という俗諺もある。

職住一致
 昭和後期から小樽もドーナツ化し、中心部から桜・新光・望洋台・長橋・幸・オタモイなどに居を構える傾向が強くなっていく。職業からすると小売業者が職住分離をしていく中で、職人が依然として職住一致で中心部に張り付いている。その代表例が今日の水天宮の丘だ。

花柳界
 また大正時代は現寿司屋通りに芸者の派遣会社「見番」が並ぶ一方、山田町には料亭が建ち、花柳界が形成された。成功者を生み、居宅環境として海の見える丘が選ばれ、海の見えない丘には職人が住み、まちづくりの画竜点睛であるかのように花柳界が形成された。

位置づけ
 まさに海の玄関口に商船が押し寄せ、堺町に問屋街、そして水天宮の丘に、住居、職人、花柳界といったコンパクトシティが完成した。以後、稲穂・花園・富岡・入船に街区は拡大していく中で、花柳界は花園にシフトするが、水天宮の丘は今も頑として小樽初期の様相を維持している。

歴史的建造物
 平成4年時にこの3町には山田町36軒、東雲町32軒、相生町52軒の歴史的建造物が確認されたが、平成24年の歴史文化研究所調査では、山田町13軒、東雲町11軒、相生町25軒となり、55.5%が消失している。市内全域では53.8%減より強い減少率だ。
 客観的には歴史性が便益や経済論理の犠牲になったといえるが、一方で老朽化や維持費から救われたともいえる。小樽初期の歴史が刻まれる水天宮の丘として、住民の連携が望まれる。