小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(21)

保格ラインの実働隊
石井 伸和


祭り会場本部にて 後ろ立姿左側が吉岡氏
祭り会場本部にて 後ろ立姿左側が吉岡氏

若き日の吉岡氏
若き日の吉岡氏

吉岡 雅実
 第1回ポート開催の昭和53年当時、札幌大学1年生であった吉岡雅実氏は、桜陽高校時代の学園祭の際にポスターを山さん(山口 保)にシルクスクリーンで制作依頼をしていたことが契機となり、メリーゴランドグループの一員としてポートの輪に入っていく。
 山さんから「お前暇か?昼のおにぎりと軍手を持って設営現場に来いや」と訳もわからず誘われたのがきっかけだった。ポートの設営現場である運河では大谷をトップに多くの若者達が汗を流して設営していた。吉岡もまた高校時代には写真部にいたことから、当然のように被写体としての運河には魅力を感じていたし、彼は彼自身の感覚で、叫児楼やホイホイハウスにも通い、運河が埋め立てられる危機感を抱き、ポート仲間の一員になっていった。
 吉岡はこう述懐する。「興次郎(佐々木)さんは言葉は泥臭いけど説得力があった。べべ(岡部)さんは無茶なことを提案して各セクションが如何に実現するかを考えるテーマをいつも働きかけてくれた。大谷さんは口より先に動けと教えてくれた。志佐さんは写真の師匠でもあったしいつもニュートラルな位置にいた。キッコ(北田)さんはまさに母だった」
 あれから35年過ぎた吉岡のこの述懐は、誰からも愛され、吉岡自身が誰をも愛していた証である。結果的に吉岡はファイナルの第17回のポートまで、事務局長的なポジションを全うするが、細かな連絡ごとに加え、ある程度の根回し作業を「吉岡やっといてくれ」と頼まれ、また本人も自分がすべきと認識する阿吽の呼吸ができていく。
 また吉岡はこういう。「8回目以降の実行委員会メンバーの二十代の若い連中の気持ちの中に、自分達は利用されているという誤解が蔓延していた。初期の頃には格さんのような名通訳がいたから危機感も戦略性も同じような温度で認識できたが、既に後半には会議にも出ていない先輩たちが彼らを利用するいわれもなく、いわばポートの社会性はこういう誤解が内部に醸造された段階で消失したのかもしれない」
 これは、社会のダイナミズムの核に触れる人間がポートスタッフの中にいなくなったともいえるし、現場だけをまかされている者にとっては、義務のみが残り、無論人間は義務だけでは何事も維持できないと解釈できよう。このような変化はなにも内部だけではない。吉岡が媒体管理を任じた際に、たとえばテレビ局のUHBのスタッフにも、ジャーナリズムの視点からポートに熱い眼差しを向け、ビール券や夜の小樽港遊覧のチケットを束で買ってくれた時期があった。しかし社会性が欠如していくとこれが困難になっていく。つまり媒体の目から見て、社会のダイナミズムをポートが持たなくなったことを意味する。
 吉岡は大学を卒業後、岡部が勤務していた札幌ファッションモデルグループ(SFMG)に入社し、以後博報堂をはじめとした広告代理店に勤務するが、これらクリエイティブな業務のうえで、ベベ(岡部)の言う無茶なことを各セクションが如何に実現するかという学びが最も役立ったという。
「もし自分がポートを体験せず、ベベさんらをはじめとした先輩方に会っていなければ、もちろん広告業界などにはいかなかったし、たぶん変化を好まない普通のサラリーマンで終わっていましたね。だから僕はあの頃会えた多くの先輩達には今も感謝しているし、嫌な思い出なんて一つも思い出せません」
 吉岡の回りの先輩達は事務局の吉岡をまるでサンドバッグのように叩いてしごいた。そして吉岡もタダの一度もそのオファーを拒否したことがないし愚痴ったこともない。自分しかいないと思っていたからだ。
 ポートは明らかに社会に変革を仕掛けた。しかし主催する多くの若者の頭には細部にわたる責任感はなかったといっていい。また細かすぎる責任感があっては変革などできはしない。ヤンチャで投げやりで大胆で無責任なこの祭りの中で、吉岡の普通さが唯一社会の糸口だったのかもしれない。

磁石
 不思議としかいいようがない。旗を振る者、通訳する者、仲間を誘う者、そしてわずかな実務者らがこうしてムーブメントを起こす初期ユニットになっていった。誰かが言った。「ことを起こすには一人の馬鹿と三人の利口がおればいい」
 後述するが、運河保存運動は国会でも議論されるほど大きな社会問題に発展した。その根拠は公共政策の立て方にある。小樽の運河がどうなろうと、全国的には大きな意味をもたないが、地域の公共物をどうするか決める過程が全国的な話題になった。なぜなら、高度経済成長期は誰もが同じ歯車となって経済のボトムアップに邁進する秩序があった。その秩序の旗振り役を政治あるいは国会が担っていた。それはそれで、一億層中流階級などという理想的な国を実現したのだからいいとして、中央集権的画一性や経済合理性に対する反省も同時に孕んでいた時代だった。こういう反省心を持つ人々は全国にも数多くいた。そこに響いたのだ。しかも主体は一般市民であり、なんと若者だということも大きなインパクトを与えた。これがポートフェスティバルだった。
 ここに実名を記した人々は、少なくとも志は一致していた。「地域の公共物の決定に地域住民が、しかも若者が意見をいって何が悪い」という毅然とした姿勢だった。本来、地域の公共物の決定議論をするのは政治の領域である。この頃の小樽の経済界の大人達は「政治に口出しするな」とよく言っていた。だから政治に口出しする若者如きはまさに突然変異に映った。しかし若者達は思っていた。「行政も議会も当てにならない。中央の論理を地方が受けるにも限度がある」と。だから注目された。
 そしてたった十数人の一致した志の初期ユニットが、スタッフ総勢200人もの若者を惹きつけるにはそれなりの磁石が必要だ。ここに提供されたのが音楽と出店だった。音楽ではロック・ブルース・フォーク、出店では骨董品、趣味の手づくり品、サークルによる飲食、つまりこういった表現形態の発表の場という磁石である。こういう磁石に寄せられた人々は運河のことは後付でしかなかった。
 表現形態の発表の場といったが、発表したい人々がいたことと、それらが発表したいなにものも持たない若者達に、観て聴いて味わうという多くの現場の選択肢を与えたことにもなる。たとえば私は中学時代にロックを聴き、高校時代にフォークを聴き、大学時代にジャズをよく聴いたが、ポートの会場でブルースを聴くことによって、なによりもブルースのサウンドが心に響くという潜在性を悟ったように。