小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(22)

第2回ポート周辺の風景
石井 伸和


ロックステージ(税関跡地)
ロックステージ(税関跡地)

スタッフ集合写真
スタッフ集合写真

第2回の成果
 ポートには名事務局陣が形成されるが、格さん(小川原 格)はこの陣容にも力を注いだ。
 吉岡雅美氏、原田和幸氏、北田聡子氏の三人組である。
 吉岡は大学生、原田は公務員、北田は会社員、この事務局体制はまさに水を得た魚のように、鉄壁の体制として第7回目までポートを影で支えた。
 さらには大谷、岡部、原田に加え、太田、志佐などの実働部隊がラインナップした。
 また出店は一気に二倍の申込が舞い込み180軒を超えた。さらに後かたづけも大谷が何度も何度もスタッフを諭し、翌日の夕方には全ての始末を終えた。またSTVラジオの日高晤郎が実況を張り、スタッフのプロレスショーなどで艀ステージの子供達は盛り上がった。
 格さんの仕掛けは商店街にも及んだ。第2回目のポートのシナリオには資金的基盤が必要だという考えから、ポートオリジナルのTシャツやタオルを商店街で販売してもらうというネットワークを講じた。
 こうして港湾業者や商店街を巻き込み、財政基盤を確立し、運動の成果は市民に向けてさらに浸透していった。

私的風景
 第2回ポートフェスティバル宣伝部長となった私の任務は基本的に祭りの事前に終了する。とはいえ祭り当日遊んでいる訳にはいかない。大谷の指示で設営や撤去を手伝い、原田の指示で各出店に電球を配り、本部に詰めてマスコミや対応や必要があればいつでも動ける体制についていた。その間、仲間達のポートに関わる様々な考えを聞く機会に恵まれ、己のミーハー性を思い知らされた。音楽が好きだったことから、警備用のトランシーバーを片手に、フォークステージやロックステージの前でよく聴いた。どの出店にも笑いがあった。200人近く集まったスタッフ達の顔も次第に明確に覚えるようになっていった。
 これまで登壇したポートスタッフは、既述したように叫児楼、メリーゴランドなど常連を基盤にしていたが、私は当時、いずれの店の常連でもなかった。ただただ山さん(山口 保)の話がおもしろかったし、その生き様の後ろ姿を追うことにウキウキした。だから既存の仲間達のムードを壊す気もないし、中に割ってはいる気もないから、いつもポートの中では仲間意識的コミュニティの外にいたように思える。しかし「人見知り」というほど純粋でも謙虚でもない。ただ「世の中どうなっていくのだろう」というダイナミズムの渦中で、「俺にはなにができるのだろう」という悶々とした鬱屈が間違いなくあった。いま思えば自分を実験台にした社会実験のような渦中にいた。「社会」への興味や好奇心が次第に大きくなっていく原石そのものだった。

格さん観・興次郎観
 これまで山さん、格さん、興次郎について数多く記載しているが、この頃の私にとって、格さんや興次郎とはこれといった会話をしていない。その原因は自分にあった。早い話、私に問題意識が具体的にないから、質問が沸いてこない。彼らとて問題意識のない者に餌をぶら下げて問題意識を探るほど暇ではない。「社会」への興味はあっても、まだまだ漠然としたままで、社会の何を見てどう思うかなどという具体性に欠けていた。だから当然、自分が何者かすらも分かっていない。何度もいうように、憧憬だけが人一倍強く、ミーハーで幼稚な自分とのギャップがいつもあった。
 だからここに格さんの苦難を書いているが、ごく最近知らされたことで、「へぇーそんなことがあったんだ」と驚きを隠せない。ただ声が大きく、独特の口調で語り、じっくりねっとり型の論客程度にしか理解していなかった。
 一方、興次郎からは「あなたも小樽人なら一緒に祭りをしませんか」と叫児楼前の路上で誘われたのが始まりで、以後膝を交えて話す機会は、ずーっと後になってからである。叫児楼の「牡蠣ときのこのスパゲティ」が好きで、その大盛りをよく食べに行ったが、あの独特の常連コミュニティにはなかなかとけ込めなかった記憶がある。当時の静屋通りは以前にも書いた通り、ジーンズ姿の若者達で溢れていた。どの店もベンチを店前に置き、常連等がそこで話している風景が当たり前だった。私のような新参者が店へ入ると、カウンターに居並ぶ常連達が一斉にこちらを向き、視線が集まってしまう。それは実は自然なことなのだが、この雰囲気が如何ともし難い気分にさせた。ときどきポートに関する話をカウンター客としているマスターの興次郎を見た。言葉を発する間際に「ウーン」と少しためてから出る応答は、意外にも竹を割ったような断言性を持っていた。孤独の中で「お前はどうなんだ」と何度も何度も葛藤があったことをうかがわせる人だった。後年「運動は消費だ」と断言する興次郎がいた。「だから疲れるのは当たり前だ」ともいった。ものを食べたり使ったりする消費という意味でとらえるなら、運動を生きるための日常茶飯事に過ぎないという蓋然性に位置づける覚悟がそこにはあった。 

小樽を憂う一般市民の誕生
 運河問題タブーを脱却した小樽では、真剣に考える一般市民も生まれてきた。潮見台に住む国鉄職員 金子信雄氏が「小樽市運河問題調査審議会条例 小樽市条例制定請求者署名簿」を昭和54年1月22日付で発行し、その署名集めに奔走した。
 その内容は、一度壊したら二度とつくれない貴重な運河という財産を、今後どのように活用できるかを、各界の専門家に調査研究をしてもらい、その結果をもって保存派も埋立派も同じテーブルで議論して決めるべきだという、我々にとっては至極正当な主旨であった。
 しかし、結果的には「一度決めたことを覆すことは行政の根幹に関わる」という志村市長の一言でこの提言や集められた5万2百名の署名は無に帰した。
 いずれにせよ、このような小樽を憂う一般市民が声を出せる土壌になったことは大きな変化であった。

成果を利用する政治からの接触
 昭和54年の春に事務局の吉岡から私は連絡を受け、宣伝部長として面会してほしい申込がきている旨を言い渡された。待ち合わせた喫茶店に入ると、爽やかな印象の30前後の人物が待っていた。
 前段で、ポートがいかに素晴らしいかを語られ、是非応援したいという主旨だった。そこまではうれしい評価だったが、このような動きを支援するシンジケートがあって、そこと共同で進めることをほのめかした。早い話、とある政党からの接触だと、約1時間後に悟った。こういう輩が「あれは我々のシンパがやっている」とプロバガンダの道具にするという仕掛けを、以前から聞いていた。結果的に新聞をとれとか、密な連絡関係をつくるとかという提案になった。「我々は独自に運動している。あなたがたがどう理解しようと自由だが、いま既存の政治的な領域でポートを語るスタンスは持っていない」いまこうして明確に「勝手にあんたら的な政治に利用するな」と語れるが、明確に拒絶した記憶があるのみで、うまく伝わったかどうか。
 いわば全ての現象は両刃の剣で、ポートの成果によって、前述の勇気ある一般市民が登場したり、このように既存の政治に利用されるようなコンタクトもあるということを学んだ。つまり「出る杭があると他にも出る杭がある」「出る杭があると出た杭を利用するものもある」ということか。しかし出た杭本人が打たれる恐れを知らなかったともいえる。

<写真提供:志佐 公道氏>