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まちづくり運動から学ぶ(23)

飯田構想
石井 伸和


昭和54年3月号 広報おたる 運河公園構想
昭和54年3月号 広報おたる 運河公園構想

昭和54年9月号 広報おたるに掲載されたイメージ写真
昭和54年9月号 広報おたるに掲載されたイメージ写真

飯田構想
 昭和54年1月、北大助教授の飯田勝幸氏が小樽市から依頼され、「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」を完成させた。別名「運河公園構想」の内容は、全面埋立から半分埋立、埋め立てない部分を公園化するという、現在に近い形であった。さらに6月には、「国費の導入も担保でき実現可能、我々もここまで歩み寄ったのだから、保存派も歩み寄って」という発言を当時の土木部長が議会答弁している。
 飯田氏は「歴史的なものを保存しようといえば聞こえはいいが、都市の機能はそれだけでは完結しない。新しいものを取り入れながら、いかにして調和のとれたまちづくりに仕上げるかが重要」という視点に立った構想だといい、これに対して京大名誉教授西山卯三氏は「あの程度の水が残っていれば運河を保存したといえるのだろうか。結局は埋めるための絵を描いたに過ぎない」と酷評する場面もあった。
<昭和57年10月8日北海道新聞「運河群像」>
 このような飯田構想に対し、守る会はあくまでも全面保存を主張し、道路で港と市街地が分断されることを危惧した。
 当時発行された月刊ダンにはこんな記事がある。

 〜「火中の栗を拾う」という言葉があるが、燃えさかる火の中に手を出せば結果がどうなるかは誰でも見当がつく。その火勢を見誤ってヤケドをしたのが飯田勝幸助教授。保存か埋立かで市内が大騒ぎしている小樽市に運河公園構想を依頼されたのがもとで、御用学者の烙印をベッタリ押されてしまったばかりか、反対派にカネを返せと訴えられてはいいところなし。〜

 さらにこの年、小樽市は「歩み寄り」の既成事実を重ね、「小樽市歴史的建造物対策会議」を設置し、歴史的都市景観の保全事業に着手した。これが昭和58年の「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」となり指定物件が誕生する。

飯田構想批判
 駒木定正氏は「ふぃえすた小樽」昭和54年4月号にこんな記事を投稿されている。

〜欺瞞に満ちた飯田構想
 前略 ここで飯田構想がいかに曖昧であり、市民を欺いたものであるかを、市側の説明会で配布された資料を参考に述べてみよう。これまで運河周辺環境の保存及び整備を主張してきた市民に対し、市当局は、市内交通渋滞解消のため、文化遺産としての運河の埋立はやむを得ないと回答してきた。しかし、今回はこの地区を「北海道及び小樽市の発展史の中における小樽港及び小樽運河の位置づけを残しながら、今後に小樽市民の誇れる地区として市民意識の連帯をうながす場所」と認識を改め、「小樽運河のもつ、固有の歴史的、景観的特性を残し、それを将来に向けて伝える重要な歴史的空間として整備する」とした。この内容を理解する限りにおいて、市側は、これまでの運河環境の保存、整備を主張する住民の求めに十分応じたものであり、市民側にとって大きな進歩と思われよう。このことは、本来ならば非常に喜ばしいことであり、この基本構造に立脚した整備計画がいかに実施されるかは、大いなる関心事であり、期待が寄せられるのである。しかし、その具体策として発表されたものは、まず「運河地区の一部に新計画道路を導入し道路と伝統的建築や運河を有機的に結合し、その相方の利点や魅力を生かしながら、その特性や魅力を傷つけないよう配慮する。」と述べているのである。新道計画の説明が全くされずに、「小樽運河のもつ、固有の歴史的、景観的特性」とする地区環境に、なぜ新たな道路が導入されなければならないのか。六車線もの道路が、「重要な歴史的空間」を寸断するように通らなければならないその必要性とは何か。道路建設によって「空間が」中央から寸断されるにもかかわらず、「重要な歴史的空間」と呼ぶ理由は、一体何を意味するのか。道路建設理由について一言もふれていない「計画の考え方の概要」とは、裏付けのない、空論であるとしか言わざるをえない。 後略〜

 駒木氏が主張するように、この時期に市が作成した資料は、保存派を懐柔するための理論武装が感じられる。それはおそらく飯田氏が自ら保存派というように、彼の理論あるいは文言をそっくり転用しているからだろう。ところが市は既に議論を拒否して振り向かない状態にあったところに舞い降りた飯田構想を以て、とりあえずの理論武装とした安易さがあり詰めが甘いことに駒木氏は噛みついたことを物語っている。
 飯田氏は「火中の栗を拾う」と酷評されたが、市の配付資料に対し駒木氏は「そんな栗は食い物じゃない」と切り捨てた形である。これを機に保存派の中で、専門家レベルの対案づくりの必要性が強調されていった。

第2回ポートフェスティバル
 格(小川原 格)さんを実行委員長とした第2回ポートは昭和54年7月7日8日に開催された。
 格さんは昭和54年7月の臨時増刊号『ふぃえすた小樽』にこう記した。

 〜あらためて、祭に意味合いを付与する必要はないだろう。「祭り」は唯一楽しむためにこそある。そういう「祭り」がもうすぐやってくる。〜中略〜明治・大正・昭和の親子三代百年の「時の流れ」が、そこを訪れるものすべてを魅了する。「小樽運河と石造倉庫群」の沿道に、素人があたためてきた手造りの作品の出店が数限りなく並ぶ「祭り」がやってくる。勿論、ロック・フォーク・ジャズコンサートや、のど自慢大会で若者のエネルギーが爆発するばかりではない。お年寄りが孫の手をとり、昔自分が子供の時分に運河や艀の上で遊び廻った自慢話を聞かせながら、出店をひやかす光景が、又今年もやってくる。〜
<『小樽運河保存の運動・歴史編』>

 第2回ポートフェスティバルは第1回目の倍の15万人が押しかけた。

小樽文学散歩
 ポート実行委員会はこの年、新たに「小樽文学散歩」を企画。藤女子大教授小笠原 克氏を講師に迎えて、小樽が生んだ作家 伊藤 整・小林多喜二の文学表現に触れながら小樽の街並みを逍遙した。
 小樽の街並みが文学を生む土壌に相応しいことを再発見し、文学のような味わいのあるまちづくりの視点をアピールした。
 7月8日、午前10時から午後4時で、共同通船〜日銀〜山田町〜花園公園〜図書館〜商大〜労働会館〜竜宮通り〜博物館〜手宮公園〜運河を回った。
 講師の小笠原氏は、昭和53年6月24日に、道内の学者や文化人等で「小樽運河問題を考える会」を発足させ、保存運動に力を傾けている。
<『小樽運河保存の運動・歴史編』、『小樽運河保存問題関連年表』堀川三郎>