小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(25)

奔走
石井 伸和


奔走
 私は山さん(山口 保)に諭され、自分の頭の中で運河保存と観光の経済効果をどう説明しようか悩んだ。昭和54年は小樽で誰一人として「観光都市」になるなんて思ってもおらず、当時の小樽にとっての観光は、せいぜい朝里川温泉宿泊や、夏の海水浴程度の現場しかなかった。それを山さんは「運河保存は観光の経済効果を生む」と断言した。思えば、今日の小樽観光は、この時の山さんの一言から始まったといってもいい。逆にいうなら、山さんしか今日の観光都市小樽をイメージしていなかったともいえる。
 何度も例に出すが、幕末に勝海舟と坂本龍馬しか「新生日本」を頭に描いていた者はいなかった。私にとって山さんは、まさに坂本龍馬だった。経済人に対して「運河が保存再生されると観光で多くの人々が訪れてお金を落としてくれる」と説く役回りを私は授けられた。かすかに実感はあった。たった2回のポートの体験だ。当時の私は頭で理屈で考えても説ける能力を持っていなかった。この現場での実感を持っていたことが唯一の受け皿だった。我々にとってはガムシャラであったが、あの程度のしかも手づくりのイベントに、あれだけ多くの人々が来場してくれた。これこそが観光の原点だと思った。
 小樽には長い歴史があるわけではないが、近代の凝縮した歴史が詰まっている。小樽はその歴史において日本中に誇れる近代的広域商業の実験地でさえあった。その証拠に倉庫、銀行、そして運河や手宮線という近代商業の遺産が数多く残っている。これらを小樽独自に再活用する運動は、絶対に多くの観光客を魅了する。京都のそのままの名所旧跡というパターンではなく、歴史の再活用という新たな観光資源に人々は興味を持つ。
 と、今ではそれなりに言えるが、当時の私は厚顔無恥にも興奮を伝えながら、経済界を回るしか能がなかった。いずれにせよ、山さんの卓見と私の無謀な観光説得行脚が、小樽観光の突破口になったことは、今も誇りに思っている。

井上 一郎
 弱冠22歳の青二才が意を決して最初に訪れたのが、母も尊敬してやまない井上一郎氏だった。株式会社光合金製作所社長であり、北海道中小企業家同友会小樽支部の役員をされ、後年「ミスター同友会」といわれる当時40代の井上氏は、聡明で科学的でありながら、私のような無謀な者の志を優しく包容力を以て理解してくれた。
「石井さんが小樽にとって良いことだと信じ、志を立てて多くの方々に意見を聞いて歩くことは頼もしい限りです。権力もお金もない人が志を実現させるには運動しかありません。いや権力やお金で意図を実現しても、それは長続きもしなければ人々に浸透もしないので、単なる花火で終わってしまいますから、志の実現は否応なく運動しかないでしょう。石井さんたちの方法で実現すればその時点で多くの支援者も同時に育っていますので、一人の志が人々の志になります。しかしその道のりには山あり谷ありで実現は容易ではありませんね。高い確率で実現までたどり着けないこともよくあります。その覚悟で是非頑張ってください」と勇気づけていただいた。
 さらに「運動にもいろいろなパターンがあります。たとえば誰もに不満がありながら反発しないと不満が人々に充満して爆発することもあります。これを科学的にいうとエントロピーの法則といいまが、独裁政治がこれでひっくり返った歴史が数多くあることでも証明されます。簡単にいうと、良いことは長続きしますが悪いことは長続きしないのですね。小樽運河保存運動は既に多くの賛同者がいますし、反対運動もあなたがた若者の登壇によって、明るい社会運動に変化しています。石井さんが多くの方々から意見を聞くことは、この明るい社会運動にリアリティを与えますので、頼もしいのです」と懇切丁寧にご教示いただいた。
 これは暗に、「運河を埋めろ」という意見からも「なぜ埋めろと考えるか」を洞察するくらいの度量を持つことだと理解した。だから「怖い者などない」と、無謀な私をますます無謀にさせ、奔走にエンジンがかけられた。井上氏がそう望んだかどうかは無論その限りではない。

情報戦
 運河のありかたについて、港湾管理者の小樽市が議会で強行採決をして既成事実で一歩リードしたが、保存運動側にはそんな権力に抗う権力など持ち合わせていなかった。しかし私の実感からは、実に多くの市民が「運河をきれいにして残したい」という気持ちを持っていることを確信するまでになっていた。場面は道道の権利者である北海道知事の決断に委ねられていた。保存派は手続きでは負けていたが、民意獲得では充分拮抗するどころか上回るレベルまで高揚してもいた。このようなバランスの中で双方が様々な情報発信をして自派勢力を獲得する情報戦が繰り広げられようとしていた。

現在のすえおか(富岡)
現在のすえおか(富岡)
酒亭すえおか
 ポート三人組といわれた山さん・格さん(小川原 格)・興次郎(佐々木興次郎)らは、運河を取り巻く市や商工会議所の動向を、当時花園にあった「すえおか」という居酒屋から多くの情報を入手していた。すえおかには小樽市の市長や部長、会議所の首脳陣、そしてマスコミの記者たちが同じく情報を得るために多く出入りしていた。
 この店は「過去二代の小樽市長はすえおかで決められた」というほど権威があった。二代とは安達与五郎市長と志村和雄市長をいう。女将の末岡 睦氏は、小柄で笑顔に満面の愛嬌を醸す方である。「大きく叩けば大きく鳴り、小さく叩けば小さく鳴る」という表現があるが、そんな幅をもっておられる。政治や経済も、そして俗な話題でも親身になって聞き、親身になって応えてくれる。これが多くの殿方を惹きつけていたばかりか、殿方の奥方にもファンが多い。女将の懐の広さや癒しの雰囲気に、小樽で名のあるお客が集う。名のある人々はそこで本音を吐くから本音の議論が始まる。だから小樽の政治・経済・文化のリアルタイムな情報の核心がいつもそこにあった。
 この年、どなたの葬儀であったかは定かでないが、我々も詣でると同時に下足番の手伝いをしている際に、山さんと格さんが三顧の礼でもてなしている喪服姿の女性がいた。あとで聞くとそれがすえおかの女将だった。昭和60年以降、私も格さんに紹介されたことが契機となって何度かお邪魔させていただいた。峯山さんから「あんたちょっと来なさい」と可愛がっていただいたように、女将から電話が来て「あんたちょっと来ない?」と緑町の自宅に呼ばれた。私は当時、下戸で酒を飲まなかったので、店に出入りしていなかったし、そういう店で飲めるほどの金さえなかったからだ。美味しい珈琲と高級菓子をいつも出してくれた。一度行くと3時間は話し込んだ。
 私がすえおか通いをする頃は、既に運河論争は終わっており、新しい日銀支店長の話や川合会頭ら会議所首脳陣の動向や青年会議所の動向など、随分と貴重な情報をいただいた。