小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(29)

中 一夫
石井 伸和


昭和56年10月25日(日)雪のち雨のちくもりのち晴れ <写真提供:中 恭介氏>
昭和56年10月25日(日)雪のち雨のちくもりのち晴れ <写真提供:中 恭介氏>

中 一夫
 中 一夫氏は私と同期である。苫小牧高専で土木を学ぶが在籍3年で中退し、北海製罐に季節工として勤務しながら、阿呆亭という飲み屋に出入りする。そこで手宮のメリーゴーランドの山口氏が運河の祭りを考えているという情報を入手し、メリーゴーランドの常連となっていく。山さんの話にワクワクし、奥方の山口信子氏の話もまた楽しかったという。メリーゴーランドの雰囲気はまさに中自身が求めていたシチュエーションだった。気取りがなく骨董品に囲まれ60年代・70年代のフォークソングがBGMという風情は小樽唯一の下町といわれた手宮の新たな原風景といえた。
 同じ常連客であった天下善博氏、斎藤友美惠氏、笠井 実氏らとの深い交流も重なり、ここに後に私と同期で同大学出身の岡山出身松岡 勤氏が加わり、ポート実行委員会でも目立たないが確実に運動に貢献するメリー軍団が形成されていく。
 中はメリーゴーランドのミニライブでもギターの弾き語りで何度か歌っている。

独自路線
 昭和53年第1回ポートフェスティバルでは、当時のメリーゴーランド近くに古くから営業されている越前電気にアルバイトとして勤務していたことから、イベントの電気工事の一員としてポートづくりに参加し、同時にフォークのコンサートにも出演する。
 また山さんに同行して藤森ビル(現・浪漫館)へ出向き、元小樽運河を守る会事務局長の藤森茂男氏にも会い、後日いろいろな過去の出来事を教えていただいたと述懐する。
 さらに映画への興味から映画づくりのサークルにも入り、そこで平田真由美氏と出会い、平田とともに「ふぃえすた小樽」発刊のスタッフにもなるが、初代編集長のDAX(原田佳幸)のコンテンツにおけるポピュリズム性導入度合いと意見が合わず脱会。
 これらのことが契機となり、中自身がこの運動にどう関わるかという自問自答が始まる。

紙芝居の本『ニャン太は運河が大好き』
紙芝居の本『ニャン太は運河が大好き』
ニャン太の大冒険
 全国のゆるキャラは5~6千もあるといわれるほど、現在ゆるキャラブームである。小樽では着ぐるみを持つ「運がっぱ」「商大くん」「タルピー」、絵としての「荒波しゃこ次郎」「こうワンコ」など小樽にもいくつかのゆるキャラが登場している。しかし現代史において最も早い小樽のゆるキャラは「ニャン太」といえるだろう。
 昭和54年、中の親友となった松岡 勤は小樽に定住し現在の富岡ニュータウンの入口の坂道の途中に民家を改造して民宿「ポンポン船」を営むことになる。ポンポン船を根城に中と松岡の運動論が熱を帯びていく。
 松岡はシナリオライター志望、中はイラストレーター志望、この潜在性の交流から生み出されたのが紙芝居、そしてニャン太というキャラクターが運河をやさしく説明する普及ツールとして誕生する。「こういうものがあれば一般市民にもっと運河のおもしろさを理解してもらえる」と提案してくれたのは、当時水産高校の教員であった境 一郎氏であった。中は小樽の画家・森本光子氏から絵の指導を仰いだという。
 紙芝居興業は第3回ポート会場はもちろん、市役所前、妙見市場前、丸井デパート前、そして商店街や幼稚園などにも出向き多くの人々に運河の良さを説いた。
 裏話であるが、『ニャン太は運河が大好き』という紙芝居の本の自費出版には67万円要したという。手づくりで写植を切り貼りする作業(現在ではコンピューターでする編集作業)も自ら行った。

わからない人にもよくわかる運河講座
 中が次に起こした独自運動は原稿用紙10枚に及ぶ「わからない人にもよくわかる運河講座」<『ふぃえすた小樽7号』に全文掲載』>である。中学生でも理解できる仮説で価値観を伝え、小樽の大人社会の幼稚さを鋭く突く仕掛けだ。この記事はなにを隠そう、若いスタッフにとっての開眼役を大いに果たした。

外交
 昭和55年に第3回ポートフェスティバル終了後、当時ポートフェスティバルを含めて「日本三大手づくり祭り」といわれた、長崎中島川祭り、大阪中之島祭りへもポート代表として自費で交流を図ってきた。
<『ふぃえすた小樽10号』に報告記事掲載>

オリジナルソング
 中の独自路線の運動は、彼が得意とするフォークソングにおいても開花する。昭和53年には「小樽運河ちゃん悲しいのかい」、昭和57年には「我が運河の詩」がポート会場で発表される。

運河を守ろう紙芝居 <写真提供:中 恭介氏>
運河を守ろう紙芝居 <写真提供:中 恭介氏>
小樽再生フォーラム
 運河問題の終息する昭和59年以後、保存派を組織していた人々は次第に疎遠になっていくが、まちづくりや運動のダイナミズムを覚えた、弱冠29歳の中も私も振り上げた拳を降ろすことは考えもしない。私はサマーフェスティバルという方向へ歩み、中は再生フォーラムを組織していく。
 小樽再生フォーラムの発起人は峯山冨美氏・篠崎恒夫氏(商大教授)・渡部 智氏(後市議会議員)・結城洋一郎氏(商大教授)そして中である。昭和61年道新ホールにおいて篠崎氏を議長に設立される。「長橋なえぼ公園」への要望・提言、景観を無視したマンション建設に「深甚な配慮を」願う要望、「まちなみ見学会」「親と子のスケッチ会」「松前神楽保存」、出版制作事業『小樽の建築探訪』『小樽たてもの散歩』など今日も運動は蓄積されている。
 中は再生フォーラム設立前後に、父の経営する北海道新聞販売所花園店に腰を据え、立派に再生され、さらに朝里に移転後も精力的に販売先を増やし、「小樽・朝里のまちづくりの会」の核にもなっている。

中の運動
 本稿において中に関する記述の冒頭に「目立たないが」という形容をあえてした。同期の私と比べて中は日陰を歩んできた印象を私自身が持っていたからだ。しかし陽に照らされようと照らされまいと運動への貢献に本質的な違いはない。一方で「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」という片手落ちの比喩もある。中は回りの者や子供たちに理解できる運動をしてきたから木を見てきた。これに対し私は、変革のキーマンとなる先輩の付添をしてきたから森ばかりを見てきた。これについてもその価値の比較にはなんの意味も持たない。
 社会変革のために運動は不可欠だ。運動には陰も陽も必要だし、木も森も必要だ。陽や森で旗を振れば、陰や木で漏れを防ぐ。どちらかが生き生きすれば片方には代えがたい成果の証左にもなる。
 特段、中と私は語り合い「ならお前はこれ、俺はあれ」などと示し合わせた記憶はないが、大きな運動の中の両極端にそれぞれがいたんだと時を経て改めて俯瞰することができる。事実35年も過ぎた今日、改めて取材し私が抱く中への「日陰の印象」をヌケヌケと伝えたとき、「僕自身がそういう方針だったから全く正しいです」と返すからおもしろい。