小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalwインフラ(7) 地域のためになくてなはらないものたち

インフラ(7) 地域のためになくてなはらないものたち

小樽港 @明治初期の小樽港


(写真1)港測量図
(写真1)港測量図

(写真2)明治15年の小樽港  <写真1・2:北海道大学附属図書館北方資料室 提供>
(写真2)明治15年の小樽港 <写真1・2:北海道大学附属図書館北方資料室 提供>

明治初期小樽港湾年表
文久元年 場所請負人岡田家 港町海岸埋立
明治2年 手宮海官所設置(5年小樽海官所、8年小樽船改所と改称)追鰊の契機となる
明治4年 帝国軍艦「春日」小樽港測量 堺・港町埋立
明治6年 色内埠頭竣工
明治8年 堺・港町埋立
明治10年 手宮埠頭竣工
明治14年 手宮桟橋竣工 信香~有幌~港~色内~手宮車道開通
明治25年 南浜町船入澗竣工 港町・入船船入澗竣工

 明治初期の小樽港の港内整備は、埋立による用地造成と平行して海岸沿いの市街地が形成され、道路・埠頭・船入澗・桟橋等の港湾施設が拡充されていった。

鰊資源を商う北前船
 需要によって供給が整備されるように、ソフトのありようによってハードがつくられる。当時の港は近代物流のありようによって整備されてきた。安政3(1856)年に積丹半島神威岬以北への女人禁制が解除され、13年後の明治2年に手宮海官所が設置されると、人の移動や移住する制度が整い、明治4年に帝国軍艦「春日」によって小樽港の測量(写真1)が行われ、奇岩多き堺・港町を埋立て、船が岸に近づけるように整備されていく。これは特に積丹半島で大量にとれていた鰊を商う北前船や移民船の停泊や運航のためである。この北前船入港がますます増え、明治6年に色内埠頭、明治10年に手宮埠頭が竣工され、小樽港の海岸線が整備されてきた。
<『写真集 小樽築港100年のあゆみ』 北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所発行>
 しかしこの時代は基本的に岸に着岸はせず、北前船自体に積んできた保津船に荷をおろして、保津船を着岸させて陸揚げしていたと思われる。

移民を運ぶ帆船
 移民は和船、洋型帆船、蒸気船などで小樽港に運ばれてきた。和船とは北前船のような形で艫(船尾)に吹く風を頼りに走行し、洋型帆船とは複数の帆を掲げ風向きを計算して走行し、蒸気船は自らの動力を持って走行する。この移民運搬に関しては木造の桟橋が整備されている。

用途
 明治10年代はじめ頃の小樽港は、このようにヒトとモノを限られた量だけ運ぶ港としての用途が期待され、小規模な埠頭や小規模な桟橋が整備されてきた(写真2)。しかし近代化の牽引役となっていた産業革命のシンボル蒸気機関の燃料として石炭が花形となり、石炭の国内使用や輸出は国家的課題となっていく。ここから小規模では収まらない需要が湧き起こり、幌内の石炭を効率よく輸送する物流システムとして鉄道が計画されると同時に、小樽港の整備も進められ、明治14年、手宮桟橋竣工や信香~有幌~港~色内~手宮間の車道が開通され、明治15年に幌内~手宮間に鉄道が全通し、石炭の大量輸送の流通港というポジションを小樽港は確立していく。