隔世の感
編集人 石井 伸和
40年前
40年前筆者は18歳、京都で暮らす書生だった。その時代の当たり前の風景を記す。風呂は良くて2日に1回、無論シャワーもない。寝床はセンベイかもしくはビール箱を8つ並べて段ボールを敷いてベッド代わり。無論干すなどという知識もないから4年間同じ布団。学ぶための記録はコンピューターもなかったのでノートやメモ用紙、書き物がおおくてペンダコもできた。遊びといえば麻雀、趣味といえば音楽くらいだったから麻雀も上達した。音楽の志向も洗練され俗な歌謡曲など聴いたことがなかった。リスナーを脱してプレイヤー志向にも手を出した。レンジもなかったから二度に一度は冷や飯、でも熱々のインスタントラーメンがあれば満腹だった。旅といえば専らヒッチハイクでよく大学の先輩を訪ねて無銭旅行を楽しんだ。親のスネかじりの仕送りは3万円だったが、1日掛け持ちのバイトもしたし麻雀も負けなかったから「半分でいいよ」と安心させようとしたが逆に心配された。正直遊ぶ小遣いは毎月10万円以上は確保できた。といっても下戸だったから本とレコードが山ほどたまった。飲めなくても先輩のオゴリでいろいろな酒場を体験できた。当時、この程度は特段珍しくもない風景だった。
現在
40年前の若者の当たり前の風景はいまこう変わった。毎日シャワーか風呂に入り、生体工学を配慮したベッドに寝て、乾燥機で常に清潔。学びも伝達もコンピューターで記述し保管、友人知人とのコミュニケーションの多くはメール。メールを打ち過ぎてもタッチパネルだからタコもなく美しい指。レンジがあるから冷や飯など食べたこともなく、旅行の多くはパッケージツアーで計画する必要もない。トイレはウォシュレットで電器はLED、洗濯も炊飯も自動。見たいテレビ番組はタイマー予約だから時間にも縛られない。サプリメントはバリエーションも豊かで無料の試供品で自分に合ったものをチョイス。
比較
たかがこの40年間で隔世の感を覚えるほど文明は発展した。おかげで清潔で世界一の寿命を手に入れた。悪いことではない。この文明の発展に貢献された全ての人々に感謝してもしきれないほどだ。問題は洗練された文明を与えられる側にある。
一つは「なくて当たり前」から「あって当たり前」の差は、「あって当たり前」の人々に「なければ困る」悩みを発生させる。「あって当たり前」の緻密な境遇はなにか一つでも故障が生じれば、修理せずにはいられない。この一定の高度な文明で守られた生活環境を維持しなければ落ち着かない。だから遊ぶ金がない。顕著な例をあげれば携帯。万が一紛失しようものなら頭のコントロール機能は完全麻痺状態だ。ウェアラブル(wearable 着用)といわれるように携帯が自分の一部になっている。この携帯紛失体験を高度な文明で守られた生活環境全般に類推すれば、維持に気も財もとられて遊べない。
もう一つは文明の発展は日進月歩どころかいまや分刻みだ。読書の多くはマニュアル読みに費やされる日々が続くから、文学など読む暇がない。つまりクリエイティブに費やす時間がない。
ダメ押しはリテラシー(読み書き能力・文明を使いこなす能力)への教育の欠如。「ワルふざけ投稿」事件のような愚にもつかない現象が多発している。パブリックとプライベートの区別がつけられない。だから叩かれて萎む。よってますます閉じこもる。人間がよりクリエイティブであるための道具としてコンピューターや文明が生まれたのに、維持や使い方で紛れている。
以上の遊ばない理由に加え遊べない背景もある。非正規雇用率が50%を超え、年相応の給与があたらず将来設計もできないから余計遊べない。いくら年をとっても遊び心が大切と教えられてきた人生観はここで頓挫している。
背景
戦後のアメリカナイズで「個人主義」が浸透した。日本国民の多くがこれを「自己主義」を通り越し「利己主義」に変換した。子供部屋がつくられ、旅館がホテルに変わった。今度は「個人情報保護法」で、「利己主義」を隠蔽することが正当化される。決定打は「デジタル機器」の普及だ。誰でもバーチャルに逃げ込める。しかもそこには類は友を呼んで愚痴論者までもスターとなるオベーションが用意されている。
なにもかもが教育の欠如といってもいい。放っておいたらTPPで世界中の志ある若者に日本は席捲される。これが昔からよくある「親父の小言」の杞憂であればと願わずにいられない。