小樽港 A明治中期の小樽港
明治初期港湾年表
明治14年(1881年8月30日)
明治天皇行幸、小樽港に上陸
明治14年(1881年)
従来の手宮埠頭を横断する長さ240間の桟橋が完成
明治16年(1883年)
高島郡祝津村、日和山岬頭に燈台を築造
明治18年(1885年)
小樽港海面埋立規則公布、郡役所一括扱い埋立出願者
25名
明治21年(1888年9月15日)
小樽港道路修築開通式挙行
明治21年(1888年11月5日)
小樽港で埋立着手
明治22年(1889年8月15日)
小樽は特別輸出規制施行
漁業vs商業
明治13年に手宮~札幌間に鉄道が敷設された翌年14年、春鰊漁がまれにみる大不漁で漁民達は列車の音響が鰊を近寄らせないためだと、張碓沿岸の漁民が大挙して張碓トンネル入口をふさぐという事件が起きた。漁業の敷地に商業が進入した格好であり、小樽が商業港湾都市として脱皮する瞬間の逸話でもある。
列車の音響が鰊を近寄らせない原因とは断言できないが、既にこの時代は、鰊を肥料にするため大量の鰊が鉄鍋で炊かれたことから、木々の乱伐により小樽中の山はみな禿げ山であった。樹木の養分が川から流れて、鰊が産卵するホンダワラに染みこむという原理からして、鰊漁民の行動は自己矛盾を内包している。後世、鰊が来なくなった原因には、「潮の流れが変わった」「鉄道の轟音のせいだ」「樹木乱伐のせいだ」などいわれているが解明はされていない。
廣井 勇のデビュー
小樽港の父といわれた廣井勇が土木工事の経験として、媒田開採事務係鉄路科に所属し、幌内鉄道工事に携わっている。廣井と札幌農学校での同期であった内村鑑三は「ようやく橋が成り、列車の試験運轉が行われんとした時、君は顔色蒼ざめ、四肢震ひて憂慮に堪えざるものあり。列車通過を見て安心して胸を撫で下ろしたと聞きました」と述べている。廣井の責任感の大きさを示す逸話だ。
C・S・メークが北海道庁初代長官岩村通俊に招かれて来日した明治20年に、道内の二十数カ所を調査・測量し北海道全体の港湾計画をまとめて提出している。その中で小樽港に関しては、石炭輸送計画の中で小樽港の突堤式桟橋、塊炭・粉炭船積設備と港町・入船町の船溜計画である。
明治23年1月、小樽・高島各町総代は、メークの報文を参考にして、南浜町船入澗と港町・入船町船入澗の出願を道庁に提出し、明治25年に完成している。
明治22年小樽は特別輸出港に指定される。米、麦、麦粉、石炭、硫黄の5品目に限って日本船または日本人雇用の外国船により輸出ができる港として指定された。安政元(1845)年の日米和親条約の締結において北海道では箱館(函館)は既に自由な貿易が可能になっていたが、他領の商人は箱館での貿易に参加できず、他領の産物もすべて箱館の商人が取扱うように規定されている。
今日迫られている聖域なき関税撤廃(TPP)に対して、我が国あるいは地域の産業を保護する規制があったことがうかがえる。
<『小樽歴史年表』『写真集 小樽築港100年のあゆみ』『函館市史』>