小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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alwHOMEalw読んでみるalwインフラ(9) 地域のためになくてなはらないものたち

インフラ(9) 地域のためになくてなはらないものたち

小樽港B 明治後期の小樽港


小樽港に上陸する移民 <北海道大学附属図書館北方資料室>
小樽港に上陸する移民 <北海道大学附属図書館北方資料室>

小樽移民取扱事務所に於ける移住民(明治36年)<北海道立文書館>
小樽移民取扱事務所に於ける移住民(明治36年)<北海道立文書館>

明治初期港湾年表
明治29年3月
  広井勇編『小樽港湾調査報文』発行
明治33年3月7日
  埋立問題小樽有志会は住吉座で大会・政談演説会開催、小樽港湾修築期成有志会と改称
明治34年2月 
  小樽港湾修築期成有志大会開催
明治37年2月10日
  小樽港湾防海面設定
明治41年5月14日
  小樽区南浜町外に北海道移住民取扱事務所設置
明治41年6月5日
  小樽港第一防波堤竣工式挙行
明治41年6月15日
  小樽築港事務所長廣井勇辞任
明治41年11月30日
  第二防波堤の工事用埋立竣工
明治41年12月11日
  区会は小樽区第一期港湾修築工事着手延期出願を可決、16日提出

流通と倉庫
 明治中期、漁業から流通の港へ転換した小樽港は以後、流通需要にシフトしていく。運搬船も小型の北前船から中型の帆船が登場し、北前船活躍時代から建設された石造倉庫が、大量の物資輸送によって拍車がかけられた。
 壁も屋根もある一般でいう倉庫はその機能によって分けた言い方をする。長期の保管を目的とする場合を「倉庫」といい、1ヶ月程度で出し入れされ荷捌きを目的とする場合を「上屋」という。壁のない上屋もよく見かける。さてこの「上屋」は英語の「warehouse」の「ウエア」からきている。多くの荷を保管するwarehouseなる概念はメソポタミア文明が発祥だが、日本に建設されるのは広域商業が一般化する近代以降である。英語は明治に入ってから導入されたことからも上屋は近代化の需要を背景にしていたことが明らかである。

石造倉庫
 小樽の倉庫はほとんどが石造りで、明治20年頃からはじまり38年頃までが全盛であった。最も石造り倉庫が多かったのは明治41年で171棟を数えた。これは当時の倉庫198棟の86%を占めた。小樽でのはじめての石造建物は、明治6年に色内石造埠頭が築造されたときで、信香の藤野弥三兵衛、開運町の斎藤喜五郎邸とされている。<『写真集 小樽築港100年のあゆみ』>

※明治4年10月
  藤野弥三兵衛は勝納川に長6間幅2間2尺の板橋(勝納橋)を架設
※明治9年8月20日
  三条実美は開運町の斎藤喜五郎方に止宿、小樽八景を選定

移民
 明治維新は多数の失業士族を生み出した。亘理領から有珠郡へ移った伊達邦成主従、角田領から室蘭郡に移った石川邦光の家臣団、白石領から幌別郡および札幌郡手稲・白石村に移った片倉小十郎主従、岩出山領から石狩郡当別に入植した伊達邦直主従、会津から余市郡、淡路から静内へなど。<『北海道の歴史』>
 また明治20年以降、本州の農村構造が解体すると年々農民の移住も増えていく。明治30年に小樽に道内初めての移住民休憩所が建設され、小樽港は移民上陸の玄関口としても賑わいを増すようになる。
<『写真集 小樽築港100年のあゆみ』>
 移民が小樽港に上陸すれば、滞在者には宿泊施設や飲食業、道内へは鉄道が整備され、港と鉄道というインフラ連携が確認できる。

第一防波堤
 小樽港が全国的にあるいは世界的にも有名になったのは、廣井勇の設計と指導により明治41年に日本人だけで小樽第一防波堤を築造したことと同時に、廣井の工学にかかわる真摯な態度であった。小樽港は明治32年には開港場(外国貿易港)に指定され、大型貨物船が入港し、港湾物流は大いに殷賑を極めた。第一防波堤は小樽港最初の大型インフラである。