小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(35)

全国的波紋
石井 伸和



末岡メモ
 酒亭すえおかの女将 末岡睦メモには断片が記されているが、文章にすると以下のことが書かれている。時期は昭和57年9月30日、西武流通グループ代表の堤 清二発言の前後と思われる。
 堤 清二氏と朝日新聞社 取締役東京本社編集局長 中江利忠氏は東大同期で懇意であった。一方中江氏と末岡氏も懇意であったことから、中江氏が東京銀座のプレスセンターに堤・末岡・中江会談を設定し、中江氏から末岡氏にエアチケットまで送ってこられた。この席で堤氏はこういったという。
 「私と弟(堤 義明)の不仲が世間で報じられているが、実はそんな事実はなく、むしろ兄弟で共に事業をしようという相談をし、そのテーマは歴史を生かした事業で一致している。そこで、地域的には北海道の中央部、つまり小樽と積丹を結ぶラインが想定され、小樽の歴史を生かした道央圏リゾートの構想を持つに至った。小樽の開発の参考にしたのはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフだ」
 そして既に小樽には視察にも訪れ、ポートフェスティバルも見て回ったという。つまり、昭和57年9月30日の堤清二の爆弾発言「運河を埋め立てるなら運河地区再開発に協力できない」の背景を物語るメモである。
 末岡氏はこの会談内容を小樽商工会議所の川合会頭に報告する。当時、川合会頭は道道小樽臨港線早期完成促進期成会の会長である。いわば運河埋立派の代表だ。この末岡氏の報告によって、商工会議所三役である会頭川合一成氏・副会頭大野友暢氏・佐藤公亮氏・阿部 暢氏、そして小樽市の要人を含めて10人で、再度池袋の西武百貨店本店を中江氏の斡旋で訪ねたという。
 以後、川合会頭は関係者を引率して自らサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフを視察している。この頃には西武で既に小樽運河再開発の模型まで作成され、末岡氏は小樽の経済界から、本野圭祐氏・吉川雅勝氏・藤本哲哉氏・小野寺莞爾氏ら若手を誘い、札幌の長銀ビルの西武へ模型の説明を受けに訪れている。またこの時同席するはずの伊藤一朗氏は仕事の都合で行けなかったことから、末岡氏は改めて伊藤を伴って模型レクチャーを受けに再訪している。この伊藤氏・末岡氏の西武訪問時に、前述した山口・石井と長銀ビルですれ違っている。

小樽商工会議所首脳陣翻意
 昭和58年8月17日、小樽商工会議所首脳陣が「運河埋め立て見直し声明」を発表した。これはまさに回天の出来事だった。そこに名を連ねていたのは会頭の川合一成氏、副会頭の大野友暢氏、佐藤公亮氏である。もう一人の副会頭であった阿部 暢氏はこの出来事を理由に副会頭を辞任した。川合会頭は「道道臨港線早期完成促進期成会」の会長でもある。いわば敵方の頂上自ら崩れたのだ。
 川合氏は「運河地区周辺の再開発を西武流通グループの堤会長にお話ししたらご理解いただき、関口さんという立派なデザイナーが考えてみようということになった」といい、ここに登場する関口敏美氏(東京 関口デザイン研究所 所長)も、その依頼を認め、再開発計画に関する自らのスタンスを語っている。
<『月刊クォリティ』昭和57年5月号>
 小樽商工会議所執行部は当然紛糾した。その結果、同年8月25日定例常議員会において、「従来の道道臨港線の建設は基本通り堅持してゆくこととする。ただし、確実な予算をともなって行政とのコンセンサスが得られる代替案があれば、これを検討するにやぶさかでない」という合意事項に達した。紛糾の焦点は「ただし」以下を入れる入れないということだった。入れなければ今まで通りで、今回の川合氏らの態度が無視されたことになるから、川合氏は毅然として譲らなかったという。常議員の過半数が川合会頭を支持したともいわれ、一方当時の青年会議所の現役過半数も運河保存を願っていたとも聞く。既成事実や既定路線を覆す土壌は整っていたといえるのかもしれない。川合会頭の頭の中には、自らの目で見たサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフの絵図と小樽運河を重ね合わせていることも関口氏との事前打ち合わせにあったともいっている。
<『月刊クォリティ昭和58年10月号』>
 川合会頭が翻意の理由を「小樽経済百年の大計」として一歩も譲らなかったことは、保存派を大いに勇気づけた。

構図
 これまでの動きを簡単に整理してみよう。
 保存派において、小樽運河を守る会は保存を願う署名集め、ポートフェスティバル実行委員会は現場である運河を会場としたイベントを開催し、市民に運河が大事だと感じる認識を浸透させてきた。
 一方、埋立派において、行政・議会は政治的手続きとして強行採決という強攻策を行い、有効打を放ってきた。
 埋立派による権力と執行権を持つ人々の既成事実は有効打となるのに対し、なんら権力を持たない保存派は、主権在民という民主主義の根幹に座し、ひたすら市民意識の喚起に重点をおいて運動を推進してきた。しかし保存派がいくら民主主義の理想を掲げて草の根運動を重ねても、権力による既成事実の蓄積は、紛れもなく埋立派の有利な状況を加速させた。
 さてここに予想外の出来事が勃発する。堤爆弾発言である。ひとつの地域での社会問題を、日本をリードする小売業界の大企業が関心を示し、積極的な関与の意思を公表した。しかも保存派がイメージしていたまちづくりを小売業という産業の中に取り入れるという意思であり、それはまちづくり運動というジャンル外の運動が経済に浸透しようする現象だ。保存派の我々が勇み立つのは当然だったし、埋立派が堤西武グループの真意を探ろうとするのも当然だった。
 ところがこの真意探求の過程で、埋立派の頂点の中の会議所三役がこぞって保存派に翻意する。まさに9回裏同点ホームランのような出来事である。

目に見えない浸透
 我々は予想もしていなかったと記したが、保存派の運動は以下のように小樽から飛び出して全国的に展開している。

 昭和49年5月17日
   守る会は町並み保存の先進各地を歴訪する旅に出発、倉敷や妻籠など12箇所を訪問して現地の運動団体と交流し、文化庁と建設省で陳情も行う。
 昭和50年3月11日
   道議会は守る会の陳情を採択(路線変更を求める部分のみ継続審議扱い)。
 同年3月
   NHK-TV「新日本紀行:運河のある街・北海道小樽」を放映。
 同年7月 
   文化財保護法の一部改正により、伝統的建造物群保存地区制度が新設される。
 昭和53年5月12日
   島本虎三衆議院議員は第84議会「公害対策並びに環境保全特別委員会」で小樽運河問題について質問。
 同年6月17日
   道内の学者・文化人10人を中心に札幌で小樽運河問題を考える会発足。
 同年9月 小樽運河問題を考える旭川の会結成。
 同年10月 
   小樽運河を愛する会(東京)が発足。守る会・考える会・愛する会の三団体、文化庁、環境庁、建設省に運河保存を陳情。
 昭和55年5月24日
   全国町並み保存連盟は「あたらしい町自慢の創造を」と題する「第3回全国町並みゼミ」を小樽で開催。
  昭和57年9月30日
   西武流通グループ代表の堤清二氏は旭川で会見し「運河を埋め立てるなら、運河地区再開発には協力できない」の発言に及ぶ。
<『小樽運河保存問題関連年表』堀川三郎>

 このような事実から、小樽運河問題は全国の人々に報道され、国家や道議会、あるいは関係官庁にまで問題視される注目の的になってきたことから考えれば、保存派の民主主義の根幹運動が功を奏したといえるかもしれない。
<写真提供:志佐 公道>

※中江利忠
1989~1996 朝日新聞社長
※堤 義明
西部鉄道グループオーナー。1980年代後半のバブル景気真っ只中、米国の経済誌『フォーブス』に「世界一の大富豪」(Billionaires)として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円と報じられる