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まちづくり運動から学ぶ(37)

「ブラフ」をかます
石井 伸和


<ふぃえすた小樽より>
<ふぃえすた小樽より>

状勢
 昭和59年1月17日小樽運河百人委員会は署名簿を水野建設大臣と田川自治大臣に提出。全国のマスコミがこれを報道。これに対して小樽市は1月19日、建設省から署名簿を取り寄せ、その点検をはじめた。この暴挙に百人委員会は驚き対抗措置の議論が沸き起こった。ここでこの議論を正確に記すと、「ここまで市民を愚弄するなら市長リコールだ」という感情論は一致していた。その理由は、国に提出したものを、勝手に小樽市が取り寄せ、こともあろうにそれらの点検をするとは、市民愚弄のなにものでもないということだった。だがリコールという政治手法に訴えることは、あくまでもブラフに留めるべきだというのが百人委員会主流派の戦略だった。だから「リコールの可能性」を示唆したに留めた。
 1月29日、「リコールの可能性」を憂慮して地元の代議士箕輪登氏が仲介役となって、志村市長、川合会頭、山吹自民党支部長ら7人のトップ会談が開催された。
 一方、北海道知事横路孝弘氏はこの小樽状勢を鑑み、「状況が少しずつ動きつつあり、新しいコンセンサスを得るため私も努力したい」と発言し、運河埋め立て見直しを示唆する。
 
1月31日 小樽市はアルバイト10人を雇い、百人委員会の署名簿と選挙人名簿を照合する作業を開始。
2月1日 公明党道本部が埋立推進路線を変更し、運河全面保存への方針転換を決定。
2月2日 自民党道連が運河埋め立て・道路建設方針を堅持することを再確認。
2月7日 第二回トップ会談
2月12日 第三回トップ会談、いずれも平行線をたどり、箕輪代議士は「運河問題は行政機関が解決すべき」と発言し身を退いた。
2月15日 百人委員会は全員集会を開催し、リコール準備の組織設置を決定。
2月20日 小樽市による署名簿の照合結果が、選挙人名簿に該当するのが28,600人と発表。
2月22日 自民党小樽支部はリコール対策として「志村市政を守る会」発足の意向を表明。
3月7日 百人委員会は「運河拾萬人新聞」を創刊。
3月8日 道道小樽臨港線早期完成促進期成会の総会で、菅原春雄氏が会長に選任。
3月19日 小樽市議会は百人委員会提出の運河保存請願を不採択。
3月26日 水野建設大臣が横路北海道知事と会談し、「小樽博覧会の期間中は、運河埋め立て工事の一時凍結」と発言。
3月27日 稲村北海道開発庁長官が「一時休戦する措置は正しい」と工事の一時凍結を支持。
5月24日 横路知事を調停役に第1回五者会談を開催。
6月10日 小樽博覧会開催(8月26日まで)。

 このように両サイド緊迫した状況が繰り返され、横路知事を調停役にした五者会談にオトシドコロを期待するムードになっていく。
 ところが百人委員会内部に亀裂が生じた。代表世話人の一人が単独記者会見をし、リコール手続きを具体化することを表明したのだ。主流派は、「そもそもリコールの示唆は戦略であり、まして五者会談継続のときにするとは何事か」と激怒した。
<『小樽運河保存問題関連年表』堀川三郎>

<ふぃえすた小樽より>
<ふぃえすた小樽より>
山さんいわく
 激怒した主流派というのは山さん(山口 保)を核とする。当時、山さんに密着していた私は、初めて怒りで震える山さんを見た。「夢をみたくらいや。なんでいまそんなヤクザの鉄砲玉みたいなことするんやって、僕がそいつをボコボコに殴っている夢や。今が大事な最終局面で一番緊張する場面なんや。僕ら保存派の品格を落とす陰謀なのか、あるいは市民運動の仲間に入れてもらえない党派からのチャチャなのか、仮にいずれかであってもなくても、リコール劇に踊った事実は間違いない。こんな陳腐なシナリオで踊る貧相さが我慢ならんのや。しかもやで、勝てるはずもないリコールをやで。僕らは市民運動をしてきたんや。市民には有象無象がいることも弁えてる。でもこんなんはそれ以下や。良識ある人間のやることやない。器の小さいモンには大きな器の志も戦略も理解できへんから、一時の感情で飛び跳ねるんや。そんなアホに気がつかなかった僕にも腹が立つんや。その未練が夢になって出たんやな。情けないで。石井、ええか、所詮人や。よー見極めなあかん」
 山さんは我々の会議でも何度か机を叩いて激怒したことがある。いつも山さんの話を聞かせてもらっていた私は一々その怒りは最もだと思った。我々仲間達の温度差や認識の違いは間違いなくあったが、結果的には溝は埋まってきた。それは山さんが誰よりも前を見つめ現実を正確に認識していたからだ。しかし、ことリコールというブラフは行動に移した段階でブラフでなくなるばかりか、道化でしかなくなる。しかも乾いた笑い話だ。

<ふぃえすた小樽より>
<ふぃえすた小樽より>
ブラフと実行
 かつて黒船が訪れ、その軍事的圧力を背景に不平等条約を迫られた時、同じ軍事的武装のできる国であったなら、日本中は大騒ぎすることもなかった。だからそのリアリティをわきまえた者は黒船に負けない近代海軍創設に向けた運動をし準備に移った。それを主張し率先していったのが勝海舟と坂本龍馬であったが、彼らにとって近代海軍創設は軍事的実行を目的とするものではなく、軍事的ブラフと考えていたフシがある。海舟は徳川家を擁護する立場であったし、龍馬は海軍技術を貿易に使う夢があったからだ。だから彼らにとって近代海軍は「ナメられないために備える」ことを目的とした。ブラフとはハッタリを意味する。ナメられると足下を見られ不利な条約を迫られるからだ。不利な立場で外交するより対等な立場で互いに前向きな外交ができる方がはるかにいい。もしハッタリではなく実行すれば戦争となって、徳川家はもとより日本が負け植民地となり、無論貿易どころでなくなる。つまり近代技術の平和利用の逆をいってしまう。ところが、以後の日本史では近代軍備をブラフどころか実行し、ついに原爆投下の犠牲になった。
 山さんはリコールという方法はあくまでもブラフでしか使う意味がないと考えていた。リコールとなれば、その果てに行われる選挙によって政治的立場の不利な保存派に勝ち目はないことを知っていたからだ。あまつさえそのボタンを押したのは代表世話人の一人である。それは百人委員会という、山さんが講じた社会的組織の分裂・崩壊を意味する。代表世話人の一人が鉄砲玉になった。
 現在もし誰かが核爆弾のボタンを押したら、少なくとも地球は崩壊するという時代を迎えている。実行に移してはならないブラフもある。「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」というが、人類はそろそろ歴史に学んでもいいし、日本は原爆の被爆者という経験でも学んでいるのだから。

ブラフの起源と歴史的考察
 ではなぜブラフが必要か。ブラフ(軍備)だけを強化して人権・経済・福祉などお構いなしの国や組織や人間が存在するからだ。現実はこのように性悪説が性善説にものすごい勢いで覆い被さっている。そもそも人が、人を傷つけたくないという性質しか持たない性善説であれば戦争も起きないし、法律さえも不要だ。人を傷つけようと思えばピストルやナイフがなくても石でもエンピツでも可能なのに、ついに人類は人類滅亡の道具までこしらえた。これが性悪説の成れの果てだ。原爆ボタンが永遠にブラフであり続ける努力をするしか、人類には生命継承の可能性は残っていない。
 現実が「性悪説が性善説に覆い被さる」勢いであざなわれているから、対等な立場を維持するためにもブラフが必要になる。人間が誕生以来こんな性質はつきものだから、同じような心構えは古代から既にあったと想像できる。
 中国戦国時代の法家である韓非は、紀元前の大昔から「性悪説が性善説に覆い被さる」ことを見通し『韓非子』を書いた。所詮人間は弱いから欲や感情に負けて人を傷つけることを顧みない行動をとる、だから法で縛ることを説いている。善導のためであるなら法という権威を使ってもいいという考えだ。日本でも明治黎明期に法整備をした江藤新平は韓非の思想を継承した。こうしてどうしようもない極道モンは、力に弱いからより強い力を持つヤクザ組織が生まれ、公務に準じようとする公務員が欲や感情に負けて公務をおざなりにしないように、権威を発揮する官僚組織を築いた。まさに韓非のシナリオ通りに歴史は糾われてきた。しかし善導のために誕生した組織は次第に権威だけのための組織維持に躍起になる。人間は権威に弱いから肝心の善導という目的が失われていく。
 この韓非が描いたシナリオの限界に挑戦したのが同じく中国明代の王陽明。性善説の突破口として知行合一を説き、時には狂になる覚悟も必要だという。「真実がそこにあるのに何を怖がる。僕は失敗など恐れない。もちろん死なども怖くない。真実を求めて一歩を踏み出す勇気がなければ公の人々を救えない」といい黒船に小舟で向かった吉田松陰、「おもしろきこともなきよをおもしろく」と都々逸にのせて詠い奇兵隊という士農工商皆兵で長州藩に集中力を持たせた高杉晋作、彼らはまさに陽明学の徒であった。
 歴史的系譜の一端ををたどるだけでも、性悪説ではブラフはつきものだが実行すべきではなく、性善説では知行合一だからブラフになる前に、あるいはブラフをかます前に実行すべきという方向性が見えてくる。
 こうして考えれば、この段階で市長リコールの実行は、性悪説・性善説が説くいずれにもあてはまるどころか、歴史にも経験にも学ばない愚挙でしかない。