小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(38)

報道拾い読み〜末岡スクラップ〜
石井 伸和


昭和58年9月26日発表された小樽運河100人委員会発行のビラ
昭和58年9月26日発表された小樽運河100人委員会発行のビラ

勢いと背景
 昭和58年と59年は小樽運河問題の最終局面である。この時点における運河保存派の大同団結組織の先鋒は既述の「小樽運河100人委員会」であった。市内の内情は運河保存を願う市民が埋立を願う市民を大きく上回る状態であったが、政治的には埋立派・保存派は拮抗するバランスにおかれていた。私個人の目から見て、昭和53年の帰郷時、保存運動の組織は「小樽運河を守る会」のみで、社会的にはまだまだマイナーな存在であったが、以後5〜6年間でここまでの勢いと普及に至ったことは驚くべき事態に映っていた。
 この時代、行政の方針にNOという意思を抱くには2段階の難関を通らねばならない。まず背景として、明治以後の中央集権構造の延長で、高度経済成長により一億総中流階級という理想郷を実現し、国民個々の生活文明度が向上したおかげで、政治は政治、行政は行政、経済は経済という機能分担の壁が信頼とともに厚みを増していた時代である。そこにきてこの厚い壁を越えて行政方針に口出しするには、政治や行政に信頼がなくなり、逆に市民自らが公的なまちづくり意識を向上させていたという変化が加わっていたことを物語っている。そこで「運河を埋め立ててしまっていいのだろうか」という壁を越えるような疑問を持つ難関が一つ。つぎに、埋立か保存かを選択する二つ目の難関が待ち構えている。この2つの難関を越えて様々な保存派組織が誕生し、最終的に大同団結組織である「小樽運河100人委員会」によって10万人に近い署名を集め、「やっぱり運河は保存して再生させた方がいい」という多くの意思を事実上確認できるまでになったことは、驚くべき運動効果といっていい。
 この運動効果の上に立って最終局面に突入していくのだが、本稿を書き下ろしている平成26年に、実にタイムリーに末岡睦氏から膨大な報道スクラップを見せていただく機会を得た。具体的な事実確認をするには絶好の資料である。これらに基づいてこの昭和58・59年の背景を整理分析する。

小樽商工会議所
【昭和58年9月22日 北海道新聞夕刊】
 小樽商工会議所の川合一成会頭は22日昼、記者会見し「小樽運河を全面保存するためには海側の市道港線をう回路とすべきだ」と初めて具体的な代替案を正式に表明、先月25日の常議員会で事実上、同運河埋立工事の続行に決まった統一見解について同会議所内外に対し再考を求める意見を明らかにした。席上、同会頭は「小樽再生のためには運河を中心とした観光開発が不可欠で、そのためには現在の市道港線と臨港鉄道の敷地を利用し、海側に四車線のう回路をつくり、今の二車線の道道臨港線は、現状のまま保存すべきだ」と述べた。さらに「この問題については小樽百年の大計を考えて出した結論で、小樽をよくしたいという考えのなにものでもない」と強調した。

【昭和58年9月23日 読売新聞】
 川合会頭ら首脳は「(この考えに)国・道のトップクラスも理解的」と(中略)路線変更が表面化して以来、埋立推進派との対立の激化を避けて沈黙を守っていたが、ほぼ一ヶ月ぶりに公式見解を発表した。この日の会見には、川合会頭のほか、大野、佐藤両副会頭が出席。

【昭和58年9月24日 毎日新聞】
 小樽運河保存問題をめぐって内部対立がくすぶり続けている小樽商工会議所の阿部 暢副会頭(阿部建設社長)が24日、川合会頭に辞表を提出した。(中略)阿部氏は小樽の将来展望に立った場合、運河全面保存によって観光開発を重視すべきだとする川合氏の考え方に共鳴し、当初は、川合氏の運河見直し発言を支持してきた。しかし、会議所の役員会である常議員会が8月25日、従来どおりの道道臨港線の建設を堅持していく基本方針を再確認して以来、消極的に傾いていた。
 昭和58年8月17日、小樽商工会議所首脳陣が「運河埋め立て見直し声明」を発表し、紛糾した会議所が一ヶ月後にこういう動きを見せた。一ヶ月前に(出された基本方針において)「ただし、確実な予算をともなって行政とのコンセンサスが得られる代替案があれば、これを検討するにやぶさかでない」という但し書きに対する三役(会頭・副会頭)の方針発表である。

小樽市
【昭和58年9月25日 北海道新聞】
 小樽運河問題は、小樽商工会議所首脳がこのほど、現計画の代替案として市道港線利用構想を正式発表したことにより、新たな局面を迎えた。小樽市は同構想を「現実性に乏しい」と真っ向から批判、同首脳への不信をあらわにし、埋立工事を施工中の道(小樽土現)も予定通り11月上旬から、運河中心線へのクイ打ちを始める構え。しかし市、道土現内部にはいら立ち、動揺もみられ、代替案が投じた波紋は大きいようだ。(中略)
 市道港線案を「四車線22m幅員で整備したとしても、約20件の支障物件が出、工費は52億円に達する」(志村市長)などと細かに反論、現実性がないと言い切った。
 小樽市は小樽商工会議所首脳が投げかけたボールを受けなければならず、一応その提案を検討した。幅員、支障物件、工費に関する小樽市内部の検討結果を市長自ら発表したが、拙速性を免れない。

小樽運河100人委員会
【昭和58年9月27日 朝日新聞】
「小樽運河百人委員会」は、運河の保存を訴えるビラを同市内の全世帯約六万戸に配布することにし、26日、新聞折り込みで約三万世帯に配った。残り半分についても2、3日中に配布する。(中略)百人委のアピールは「運河は小樽をよみがえらせる 運河保存と道路建設は両立可能」とうたい、(中略)@運河と周辺の石造倉庫群は、近代建築学の立場から日本の三大景観の一つとして評価されている A年間五百万人の観光客を誘致でき、年間一千億円の経済効果をもたらし、雇用の機会と人口増が期待できる、などとしている。
 保存運動はこの段階で、単なる情緒的な保存理由ではなく、小樽の個性の文化的価値見直し、個性活用の経済効果、小樽の地域ビジョンの提案、専門化による代替案の提案にまで発展している。しかもそれを訴える組織母体が、小樽の各界各層が名を連ねた「小樽運河100人委員会」であり、既に10万人署名に向けて活動中である。

攻防
【昭和58年9月27日 読売新聞】
 小樽商工会議所の常議員会が、26日開かれた。(中略)定議員会ではこれまでの決議を再確認、川合会頭ら首脳の代替案作成を黙認する形となった。川合会頭は今月中にも志村市長に会い、代替案など運河問題について話し合う。(中略)会議後、正副会頭と山本 勉議員会長(議員会という親睦団体を代表する長であり、議員総会で選ばれる)の四人が記者会見。山本議員会長によると「埋立推進派からの異論は多少あったが、先日の常議員会での決議を再確認した」。また22日の首脳の記者会見での発言についても、「決議内容に沿ったものと了承された」と説明。(中略)一方、志村市長はこの日、常議員会後、各常議員に直接、代替案に対する市の考えを説明した。これは木村前会頭が招いたものだが、説明を聞くか聞かないかで対立。結局、志村市長には、常議員会が終わるまで会議所内で約1時間待ってもらい、常議員有志が説明を聞いた。

【昭和58年9月28日 読売新聞】
「小樽運河埋立の反対署名がたとえ十万人集まっても、だからといってすぐ埋立推進の態度を変えるわけにはいかない」広がる小樽運河全面保存の市民運動に対し、志村和雄小樽市長は27日の小樽市議会予算特別委員会で、強い姿勢を改めて示した。

【昭和58年9月28日 朝日新聞】
 (中略)常議員会後、志村市長が「代替道路は実現不可能」とのこれまでの市の考えを非公式に議員に説明したが、この日の特別委では「市長は、会議所の特定の議員から呼ばれて説明におもむいたときいている。これは会議所内部の混乱に拍車をかけるもので、問題だ」との意見が出された。

【昭和58年10月4日 毎日新聞】
 小樽運河埋立の計画を見直してほしい、と日本建築学会や都市計画学会の有志代表三人が三日、市役所を訪れ「埋立再考」を求める要望書に署名を添え、志村市長あてに提出した。三人は道工業大工学部 遠藤明久教授、北大工学部 足達富士夫教授、越野 武助教授の三人。

【昭和58年10月9日 読売新聞】
月内ヤマ、混迷の小樽運河 埋め立て? 代替ルート?
 小樽運河埋め立て工事は、再燃した議論をよそに、昨年12月の着工以来順調に進み、8日までに運河中心部分のヘドロ固化作業がほぼ終了。いよいよ来月から、本工事の第一段階であるクイ打ちが始まることになった。
 (中略)クイ打ち工事が始まると、もはや、後戻りは無理という見方が強く、小樽運河問題は今月いっぱいがヤマ場となりそうだ。