小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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alwHOMEalw読んでみるalwインフラ(15) 地域のためになくてなはらないものたち

インフラ(15) 地域のためになくてなはらないものたち

小樽港(9) 港文化


港文化
「港文化」という言葉に定義はない。「港文化」のわかりやすい事例として、平成12年から日本土木学会が貴重な施設としてと認定している土木遺産をあげることができる。小樽には、小樽港斜路式ケーソン製作ヤード、張碓橋、小樽港北防波堤、奥沢水源地水道施設の4つが認定されているが、そのうち2つは港施設であり、いずれも近代港湾への貢献度からして、これが「港文化」だといえば否定する者はいないだろう。
 しかし「文化」という言葉の持つ意味の領域は曖昧で広い。大きくくくって「港のおかげで生まれたもの」とすれば、小樽のほぼすべてがそうだとさえいえる。歴史という時間からも、街並みという空間からも、直接間接的に港にたどりつくからだ。

「港文化」の産業貢献
 小樽は鰊と北前船で近代日本にデビューした。この漁業と商業が「港文化」の直接的な産業側面である。鰊は漁獲量の大半が肥料になり北前船に載せて全国の農家に卸され、農産物の中でも特に綿花栽培を促進し、その綿花は輸出にも回され、近代化のための外貨獲得に貢献した。一方、北前船は広域商業の礎となり、倉庫業や荷役業に波及し、海運業に進化し、港を拠点とした近代商業を以て小樽の基幹産業にまで発展せしめた。また鰊漁業は今日の水産加工業に継承され、茹でるための鉄鍋加工技術は今日の金属加工業に継承された。
 また「港文化」の間接的な側面では、明治13年に敷設された鉄道によって、幌内炭は小樽港まで運ばれ、小樽港から移出・輸出された。この鉄道は近代化になくてはならないエネルギーである石炭を運んだが、貨物便として小樽港に下ろされた開拓物資や生活物資を北海道内陸に運んだ。そして明治28年には初めて小樽で蒸気機関車が製造され、このときの技術もまた今日の金属加工業に継承された。
 小樽の一大発展は港を拠点とした近代商業によるが、第二次大戦前後を契機として、その商業の条件が奪われ、波及文化として誕生した水産加工業や金属加工業が残り、現在でも小樽の重要な製造業になっている。
 次に「港文化」の間接的な側面の最大の貢献は観光だ。運河をはじめ、石造倉庫や歴史的建造物は港を拠点として近代商業で蓄積され、これらに商業的価値がなくなっても、歴史性やデザインが新たな価値を持ち、再利用されることで小樽観光の牽引役を果たしているし、寿司にしろ硝子にしろ海が起源である。
 さらに港から生まれた水産加工業、金属加工業、観光業という小樽3大基幹産業は、小樽外から金を稼ぐ「外貨獲得」産業の柱になっている。

「港文化」の生活貢献
 現在たとえば、街の中で銭湯へ車で行こうとしたとき、港に向かい観光客で賑わう運河を見ながら北海製罐の工場群を横切り、旭橋から海を眺め、北運河の石造倉庫群や手宮洞窟をうかがい、湯の花手宮殿にたどり着く。この間約7分だ。(たかが)銭湯に行く行為の過程で、こんな特殊な風景をくぐり抜ける体験は小樽独特と言っていい。つまり生活風景に自然に港施設が鎮座ましましているのは、小樽固有の「港文化」といえるだろう。
 また小樽は三方が山に囲まれているから坂が多い。坂を上り下りする生活風景には青い海はつきものだ。青色は人の心に癒やしを与える。上れば上るほど視界に青の占める面積は広がるので、小樽人は潜在的に上る苦労を振り向く青色に癒やされている。
 一方、海があるから漁協があり市場が栄えた。スーパーも進出しているが市場は頑として時代傾向に吸収されずに存在している。また東北以北最大の小樽マリーナと歴史ある祝津マリーナの2つがあり、小樽港から祝津やオタモイへの観光船も美しい風物詩になり、祝津や小樽港防波堤の灯台は今日も活躍している。無論おたる潮まつりも海への感謝が主旨だ。
 歴史的にも物資ばかりではなく多くの移民が渡道した際に、最初に踏む土は小樽であり、必然的に移民交差点となって近代化に向けた混合文化が根付いてきた。

小樽の海のインフラ観
 こういった「おかげ」について考えれば、小樽の華々しい歴史や今日は海や港にインフラが整備されてきたからだと確認できる。とすれば現在の小樽人は、小樽の港湾インフラをつくってきてくれたすべての人々に感謝すべきだし、報いるためにも守り生かす努力があってもいい。