小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(42)

第7回ポートフェスティバルインオタル(2)
石井 伸和


マスコミ
 マスコミは運河問題の最終的動向に特に注目していた。この昭和59年ほど、運河を題材にした報道が全国に流れた年はない。北海道新聞のスクラップを見ても、報道はもちろん社説やコラムに至るまで運河づくめだ。北海道文化放送(UHB)が1時間の特番を組みたいというオファーがポート実行委員会に来た。ネクタイ族を実行委員長にした狙いが当たったのだろうか。ポートの会議風景はもちろん、実行委員長の私の仕事の風景や私生活でトイレに向かう後姿にまでカメラは回された。制作の主眼は、会社の管理職にあり、ごく普通?の生活をしている、石井という若者が、街のことを考え運動と活動に明け暮れているというニュース性にあるとディレクターはいう。
 そんなことが何故ニュース性と認識されたのか。振り返ってみると、昭和59年は経済が高度成長から安定成長に入って暫くした時代、安定成長とは名ばかりの、むしろ構造不況業種が指摘され始め実体経済全体は成長の速度を鈍化させていた。一方で高度成長で貯えられた隠し財産がバブルに向け金融経済全体を押し上げようとしていた。いわば金を持つ者も持たざる者も金を求める条件反射のように慣性の法則下におかれていた。拝金主義という言葉も流行していた。戦後から日本の人口は東京・大阪・名古屋周辺に集中した。この構図から見ても明らかなように、日本全体が金の種を探し中央に群がる時代だ。そんな中で構造不況業種の印刷屋の息子が金にもならないまちづくりなどに奔走するのを一例として、新たな時代への感覚を持つ多くの人々の奔走の総和が全国にニュースとして報道されている。俗な言い方をすると「自分のことしか考えず儲けに執着する日本の中で、いったい小樽では何が起こっているのか」という視点だった。
 以前の自分ならこんな視点などなく、目立てばいいと思っただろう。だが第7回目の実行委員長を決意するに至る過程で、自分の中に公への志が芽生え、それをさらに磨くための試練をいただけるならと思うほど大きな変化をきたしていた。

まちづくり意識 
 当時のジャーナリズムの視点を現在にスライドさせて、解説すればこうなるかもしれない。
 経営者の任務の中に、「販売促進」「人材育成」「IT化」「社内合理化」などの社内項目以外に、「経営環境を改善する」という社外項目がある。この社外項目の総和を経済という。だからまちづくりは経済の領域だ。多くの経営者は「我が社をいかに維持・発展させるか」を重要な任務と考え、ともすれば「我が社さえよければ」というエゴに偏りがちになる。「我が社をいかに維持・発展させるか」の裏には、従業員やその家族をいかに守るかというテーマがあるから、そこは誰も否定はしない。ただし当時は「経営ばかりで経済はとんと」という意識に大きな問題が孕んでいく変革期にあった。「我が社をいかに維持・発展させるか」という考え方は一連の高度経済成長を果たし、その延長では良かった。しかし時代は中央集権から地方主権に向かおうとする今日、経済が地域と密な関係を持ち始めてきている。ということは地域の経済イコールお客の財布という傾向が強くなることを示す。これまでの経済政策は学者や政治家や中央官僚が考えていればよかったが、これからの経済政策は地域で経済にかかわる全ての人々の課題になる。
 もう一つの事例で説明する。誰もが家を建てるとき、自らの理想や夢の実現だから真剣に考える。住環境を真剣に考えるなら界隈環境も真剣に考えていいということになる。住環境の周辺である界隈環境が汚くみにくくていいとは誰も考えない。「小樽に住んでいる」と言ったときに、「よく小樽なんかに住めますね」といわれるより「へぇー小樽ですか、いいところですね」と羨ましく思われた方がはるかに心地よい。心地よければもっと心地よい界隈環境に興味を持つ。悪循環より好循環でありたい。
 まとめると、地域経済のことをしっかり考えた経営を行い、界隈環境のことをしっかり考えた住み方をするというのが、今日求められている。求められているということは、そこに新たな個々人のライフスタイルの可能性が秘められているという意味だ。生きている以上、個性と、個性が社会にどう染みこんでいくかに大きな価値を持つ。これがライフスタイルだと思っている。
 だから、まちづくり意識とはこの「経済環境」や「界隈環境」を己のライフスタイルと照らしてしっかり考えることだと、いまは理解している。

第7回ポートフェスティバルインオタル
 昭和59年7月7日・8日、第7回ポートが「ウオーターフロント・コミュニティ」をキャッチコピーに開催された。200軒を超える出店参加者をこの年は大きく5つにゾーニングした。工芸品を集めたクラフトゾーン、飲食を集めたグルメゾーン、骨董品や古着や古本を集めたノスタルジックゾーン、輸入品を集めたエキゾチックゾーン、流行品を集めたファッショナブルゾーンだ。
 実行委員会がクラフトゾーンの会場として小樽市と交渉していた元小樽倉庫の使用が、4~5回の交渉の末、借りることが不可能になった。「不特定多数の出入りは防災上責任が持てない、同倉庫は貸す目的で所有したのではない」という理由だった。元小樽倉庫は小樽市が昭和57年に買収していたが、結果的に「老朽化し使用できる状態ではない」とされた。だから野外にクラフトを集約した。
 画期的な演出として道内では初のレーザー光線をスクランブルさせ、幻想的な運河を演出した。
 さらに7月1日には事前PRを兼ね、「運河を埋めるな」というプラカードをかざして、150人のスタッフで市内をパレードした。
 当日のもう一つのニュース性は「アート・コンプレックス・ロフト」だ。前年から開始されたロフト・キャンペーンを具体化させ、前野商店倉庫を会場に映画を鑑賞してもらう企画が実施された。
 祭りへの来場人員は2日間で28万人に達し、ポートの定着に加え、政治的背景の空気を感じた多くの人々で賑わった。

人事は尽くした
 祭りは成功裏に終わった。ヘトヘト感の中で人事は尽くしたと感じた。これ以上でも以下でもない。21歳の春から29歳の夏まで9年以上、頭や身体や心の大多数を運河問題に費やしてきた。我が青春の何千ページが幕を落とした。若者組の代表であった大橋 哲(第8回実行委員長)が握手を求めてきた。地獄で仏に出会ったようにうれしかった。
 来場者はポート史上空前の28万人、小樽市民はもとより市外からも足を運んでくれた。
 明朝、会社の朝礼で社員に感謝と報告をして現場にもどり後かたづけをした。夕方で全てが終わり、クタクタになって爆睡した。
 決算は数百万円の赤字となった。しかしそれは公表されず、実行委員長の私も知らないうちに、格さんが全て面倒をみてくれたことを後日知った。
 ポート終了後、試験結果を待つ受験生のように気が気でなかった。世論の盛り上がりの度合いと五者会談の行方を見守った。


 自分の中に芽生えた「公的なるものへの思い」に歓喜した28歳の夏は終わった。歓喜はしたものの現実は辛かった。緊迫した政治的状況、場所確保への圧力、テキヤの圧力、若手スタッフの不信感、企画推進の厳しさ、スポンサードという現実経済への浸透などに、自ら立案し説得できるなにものもなく、ただただ無言で耐えるしかない夏だった。我が儘だけで青年になった自分が、社会に興味を持ち、山さんや格さん詣をする中で、一つ一つ学びつつあるとき、「今年はお前だ」と諭され、「えっ俺?」と戸惑い、孤独な暗闇の中で見えたものが、「公的なるものへの思い」だった。これだけを糧にして決断し走り抜けた。その裏には最低限傀儡となればいいという覚悟しかなかった。だからピエロのように道化ることすらできなかった。必要なこと以外は口にしなかった。スタッフの多くには「無表情で何を考えているのか見当も付かない」と思われているはずだった。
 会社のお得意さんや知人は「ボランティアでよく頑張ったね」と言う。こう言われると「えっ違うかも?」と心で首を傾げた。ボランティアとは自主的に無償で社会活動などに参加し、奉仕活動をすることをいう。結果的にはそうかもしれないが、私が熱くなれたのは、自分の中に芽生えた「公的なるものへの」思いと、「運河を再生させて世界でもおもしろい街のモデルをつくりたい」というビジョンらしきものでしかなく、それを進めるステップとしてイベントを選択し実践したに過ぎない。この実践の中で、多くの来場者が喜んでくれたり、自身で会場のゴミ拾いや警備をしたり、準備や後片付けをしたことが、客観的に見るとボランティアに映っただけのことだ。
 たとえば身体の不自由な人を支援することや、災害に遭遇した人々を支援することに誰も反対はしない。ボランティアとはそういうものだと認識していた。しかし我々がやったポートフェスティバルは、「そんなことされては困る」埋立派の人々もいる。だからさせまいと圧力までかけてきた。こう考えると、私は「志を持って戦うこと」だと感じていたし、これをボランティアというにはクスグッタイ感は否めない。同時に、変革とは戦いだと強く感じた夏でもあった。
 一言でいえば、我が儘な若者が公的なる志に目覚め、社会にデビューはしたが、なにもできず、多くの抵抗を身を以て感じたということだ。

奉仕
 ボランティアは日本語の奉仕と同義だ。たとえば架空の存在だが人々に夢を与える奉仕者として、西洋のサンタクロースと東洋の花咲爺がいる。彼らに共通するのは「奉仕の成果に関心を持たない潔さ」だ。サンタは靴下からプレゼントを取り出す子供達が歓喜する姿を見ることはなく、花咲爺は桜の下で飲んで歓喜する人々を見ることもない。人の生き甲斐は、自分が成したことに人々が喜ぶ様を見ることだ。喜べば「また頑張ろう」と思うし、こういう連鎖が人間社会の暗黙の約束であって欲しいとさえ願っている。ところがこの二人の老人は、ただただ奉仕して飛び跳ねるから、人間社会にとっては神がかって映る。


 司馬遼太郎は『花神(花咲爺)』という小説で、維新の開花を見ずに散っていった幕末の志士、吉田松陰や高杉晋作を描いたが、ちなみに小樽の歴史にも同じく花咲爺がいた。「海の廣井・山の奥井」という俗諺があるように、廣井勇と奥井寛信をいう。廣井は、明治41年に北防波堤を日本人初でつくり、その後、小樽は安心して停泊できる港となって、近代化の物流需要に応えて一大発展を遂げた。奥井は、当時まで鰊を鰊釜で煮るために伐採したことによる小樽中の禿げ山状態に、たゆまず植林して自然環境を回復させた。いずれも以後発展した小樽や、緑豊かな小樽を見ずに散った。
 ここに列挙した事例の人々に共通するのは「志」である。この「志」の中にこそ「公の幸せを思う気持ち」が込められている。が、いずれも戦いの人生だった。別な「公」もしくは社会的な力を持つ「公の仮面を被った私」が立ちはだかったからだ。また彼らに共通するもう一つは、余裕があってしたことではなく、清貧でありながら人生を賭けて成したということだ。
「志」は「心」に支えられる「士」と書くが、心のない士ばかりの官僚化した今日を思えば、この国の文明も底が知れている。だから志を傾けるジャンルは無尽蔵にある。

青い海
 私は21歳の青二才で昭和53年、小樽という地域社会にデビューした。それまで、有り余る書生時間を費やし幕末の志士への狂信的な憧憬を抱いた。とりあえず社会に出たからには、社会がどういうものかを知るために社会や勤務先のルールに従い、心の中ではいつも「これでいいのか」と葛藤していた。既存に対する問題意識の塊だったから、暇を見ては既存を客観視できる地点へ心の中で登っていた。心の坂を登れば登るほど青い海の視界に占める面積は広がった。青い海は青二才にとって夢と希望そのものだった。そこに運河保存という既存の社会での問題が起こり、この運動の真っ直中で再生された運河の絵を見て「これだ!」と感じた。この絵こそが青い海の正体だと確信した。
 この青い海について経済的な視点からの説得を先輩らに託され、「運河を再生させて観光で地域経済を活性化しよう」と言ってきた。昭和50年代、誰一人としてその説得にリアリティがあるなどとは感じていなかった。それより、運河を埋めて道路にする公共事業を誘致する経済効果を期待していたからだ。私が説得に回ったのは経済関係者ばかりだったからそういえる。


後日談
 それから30年の歴史が刻まれた。現在の観光運河と道路建設にはおよそ90億円(運河南側650mの散策路整備と臨港線整備<北海道資料より>)の公共事業費が投下されたが、運河が残ることによって例えば、平成20年度の小樽市の調査では839億円を観光市場で稼いでいる。この額の比較と、性質の比較は比較にすらならい。かたや1回切りの依存した公共事業費に対し、かたや毎年の自主的な売り上げだからだ。
 この毎年自主的な8百数十億の売り上げは、市民の一部が青い海を見たから生まれた。私が20代の時、小樽の経済界の中堅にいた叔父に「お前なにを余計なことしてるんだ。石井の面汚しだ!」と罵倒されたが、この比較が出来る今日、叔父はこの世にいない。心の階段を上って青い海を見ようともせず、街中の常識に加勢し依存した叔父だった。