小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top

COLUMN

常識と文化
編集人 石井 伸和


街中の常識
 街中では街中を生きて行くにあたっての前後・左右・上下という常識が間違いなくある。「彼の前を歩くな」「彼には近づくな」「彼には逆らうな」といった具合だ。街中の人々は常識を尺度とし、また自らも常識の一単位となって、その常識に緊張する。
 人生の諸判断を合理的に下すに当たって、目に見えない尺度として常識は実に好都合だ。

常識の変換
 常識は文化に向かうか、権威に向かうかで道は分かれる。
 常識が文化に向かう時、たとえば「歴史的建造物の再利用が多い」という小樽の常識が「歴史的建造物という過去のものと再利用という現在進行形が時のコラボとして継承されることが小樽の文化だ」となる。
 ところが、権威に向かうとややこしい。たとえば人々が権威とあがめる街中の金持ちや立場は、少なくとも一定の努力の末に勝ち得た結果であり、そこまでは尊敬や敬意として評価すべきだが、権威化に向かうと手が付けられない。実は権威は手前勝手に手前自慢を立派に見せるための演出だから亡霊といっていい。
 人は自らの判断が間違いないという確信を求めるから、本人ばかりか周りの人々も権威化してしまう。この権威という亡霊をこしらえるのは、弱さゆえの個人的捏造なので、社会の進化には何の意義もない。
 今度は常識を越えてこの権威を尺度に前後・左右・上下認識がはびこり、ますます権威という亡霊は形骸化する。なぜなら過去の常識の上で権威を誇っている人は、常識が変わっても権威だけが浮いてしまい、まるで砂上の楼閣だし裸の王様であることさえ気づかずにいるからだ。こういう場合、社会的視点では邪魔でしかなくなる。気づかないというより気づきたくないといった方が正しい。気づいたらまたゼロから始めなくてはならないし、そんなまどろっこしいことは御免被りたいからだ。御免被りたいという意識そのものは私心だ。
 常識は社会に必然的に起きる現象だが、権威は個人の意図に過ぎないので社会的必然性はない。常識が分母で権威が分子と仮定すると、分母が変わっているのに分子がそのままというわけにもいくまい。したがって繰り返すが、権威如きは邪魔で砂上の楼閣で裸の王様だということになる。

常識となった歴史的建造物再利用
 昭和50年「叫児楼」、昭和51年「海猫屋」、昭和52年「メリーズフィッシュマーケット」が小樽初の歴史的建造物再利用例であるが、この段階では再利用者達は「変な人たち」でしかない。さらに時を刻んで、昭和58年「北一硝子三号館」、昭和60年「さかい家」が堺町に誕生し、堺町そのものが小樽草創期の問屋街であったことから、歴史的建造物が軒を連ねており、運河を見に来た観光客が歩いて散策するコースに手頃だったことによって、堺町に観光施設が次々に移植された。この昭和60年代から平成初期にかけて、歴史的建造物の再利用は小樽観光の常識となっていく。

文化となった歴史的建造物再利用
 平成18年、田中酒造亀甲蔵から小樽市総合博物館までの海岸線には278棟の観光施設が存在し、そのうちの150棟が歴史的建造物再利用であった(歴文研調査)。さらに小樽郵便局、ハローワーク、小樽警察署などの新築の公共建築が古い街並みに恥じない意匠を施していく。
 つまり新築物件が既存物件(歴史的建造物)を意識した段階を以て、歴史的建造物再利用は小樽の文化に昇格したとみていい。

権威化してほしくない歴史的建造物再利用
 歴史的建造物の残存だけでは文化にならない。再利用して活かそうとする人々が時代を経て生まれ継承するハナレワザこそが文化の資格だろう。これらのハーモニーが散策する者に小樽独自の音色を聞かせてくれる。先駆者は尊敬され、これを見本に再利用は多様化する。せめてこの分野だけは権威化しないことを願わずにいられない。