小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり観光(3) 小樽のまちづくり運動と観光

まちづくりと観光の接点
ポートフェスティバル・イン・オタル
<1978〜1994(17回)>


ベイサイドステージ客席風景
ベイサイドステージ客席風景
運河保存運動の中から
 1973(昭和48)年設立の「小樽運河を守る会」に、建築や都市計画を学ぶ北海道大学大学院生の石塚雅明氏、早大大学院生の柳田良造氏らが参加していました。彼らは運河保存運動を若者に訴えようと考え、当時大阪の「中之島を守る会」が中之島まつりを開催していることをヒントに、小樽の手宮で昭和51年から営業していた喫茶店メリーゴーランドの山口保氏(現・小樽市議)と相談し、同じく静屋通りで昭和50年から営業していた喫茶店叫児楼の佐々木一夫氏を訪ねます。

夢の街づくり実行委員会
 「小樽運河を守る会」の若手グループが佐々木氏に相談にいったのには理由があります。本誌「地域資源活用ビジネス」で取り上げたとおり、開店して1ヶ月で軌道に乗るほど、叫児楼には多くの若者たちが仲間意識をもって出入りしていたからです。彼ら叫児楼の常連客には当時の若者が熱中していたロックやブルースやフォークなどの音楽仲間が大勢いました。
 もとより佐々木氏はアムステルダムの運河の感動を小樽運河に投影していたので、山口氏らの相談には二つ返事で乗り、多くの常連客と一緒に「夢の街づくり実行委員会」を立ち上げます。そして昭和52年、たまたま第11回おたる潮まつりから、若者の企画がないかという相談がきていたことが重なり、「ビート・オン・ザブーン」と題してトラックにバンドが乗り込んで、キャンペーンとして市内各地を「潮でサンバ」というオリジナル曲を演奏して回ったのです。

出店風景
出店風景
ポートフェスティバル誕生
 昭和53年は運河を残すか道路にするかの緊張が街中に漂いはじめた時期で、運河問題を語ることはタブー視される傾向がありました。ところが唯一叫児楼の店内では口角泡を飛ばすかのように、「まちってなんだ?」「まつりってなんだ?」「運河ってなんだ?」「若さってなんだ?」といったテーマで様々な議論が交わされました。
 そして潮まつりにゲリラ的に参加した経験も自信になり、7月に第1回ポートフェスティバルが開催されました。北海道において、市民手づくりの露店はフリーマーケットの先駆け、艀のビアホールはウォーターフロントの先駆け、道路の通行止めは歩行者天国の先駆け、ロックやブルースのステージは野外ステージの先駆けとなるほどのインパクトをもち、主催者の目途であった動員数3,000人を遙かに上回り、3万人にも達しました。一番興奮したのはもちろんスタッフ自身でした。

タブーから具体的で明るい話題へ
 ポートフェスティバルは以後、毎年開催され、昭和59年の第7回には20万人を超える来場者を数えるほどになっていきます。孫の手をひいたお爺ちゃんが2人で野外ステージの音楽に足でリズムをとり、露店では値引き交渉や笑いがあふれ、倉庫の中ではギャラリーやシンポジウムでまちづくりが議論され、ちびっ子広場では子供たちが裸でたわむれ、ポートのステージは北海道の音楽仲間の登竜門とさえいわれました。
 この出来事は、守る会が「小樽の原風景」といっていたキーワードに、「その原風景だからこそ運河は安心して人々が集える場所」だというリアリティをもたせたといえるでしょう。そして若者同士で、家族で、カップルで、誰もが運河のありようを明るく語ることのできるムードやヒントや材料を提示しました。

観光へのインパクト
 運河論争は昭和58年から59年にかけて沸騰期を迎えますが、58年9月に結成された「小樽運河百人委員会」では、市内から10万人署名を集める活動が始まりました。ポートフェスティバルの若いメンバーも全員参加で署名集めに奔走します。この段階から「運河を保存再開発して観光振興に」という案が盛り上がっていきます。小樽のまちづくり運動が観光に接点をもった最初です。もちろん、誰も今日の700万人を超える観光都市などという具体的なイメージを抱いたことのない時期です。
 こうしてポートフェスティバルは、以後のまちづくり運動や観光振興の運動に大きなインパクトを、今日も与え続けています。