小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり観光(7) まちづくり運動と観光

志継承
榎本武揚没後100年事業
小樽実行委員会小樽武揚祭実行委員会


龍宮神社境内に建立された榎本武揚銅像
龍宮神社境内に建立された榎本武揚銅像

榎本武揚
 榎本武揚は幕府の海軍副総裁という立場で、日本がおかれた国際的立場を客観的に把握し、近代国家樹立を展望していた一人でした。開陽丸に乗って蝦夷共和国を創設しようと北海道に向かいます。
 箱館戦争で敗戦を覚悟したとき、「自分が死んでも日本のために役立つ」と確信し、敵将黒田清隆に、自分の持っていた「海律全書」という国際法の書物を送った話は有名です。自害は部下の大塚賀久治にとめられ、薩長軍の囚われの身となりますが、新国家には欠かせない人物として1872(明治5)年に開拓使四等となり、以後、明治政府の要職を歴任、1908(明治41)年に亡くなります。

榎本武揚と小樽
 榎本は北垣国道(第4代北海道庁長官)とともに、1872(明治5)年国有地払い下げの折、小樽の土地20万坪を購入し、北辰社を設立して市街地開発を進めていきました。榎本は明治初期の、主に港沿いにしか施設がない時期に、将来の小樽を展望し、多くの人々が住む市街地として、谷地同然だった稲穂町の開発を進めました。また、所有地の一角に小祠を設け、これが今日の龍宮神社の前身といわれています。
 1878(明治11)年7月、榎本は手宮洞窟の彫刻を模写し東京大学に報告していることから、榎本はこの史蹟の第一報告者でもあります。
 商店街の梁川通りは榎本の雅号「梁川」を、静屋通りは北垣の雅号「静屋」を由来としています。

榎本武揚没後100年事業小樽実行委員会作成の記念誌
榎本武揚没後100年事業小樽実行委員会作成の記念誌
榎本武揚没後100年事業小樽実行委員会
 2008(平成20)年は榎本武揚没後100年にあたることから、榎本に縁の深い函館や札幌などと連携して小樽にも実行委員会(委員長:三山雄弘)が組織されました。
 小樽実行委員会では、記念講演会(小樽文学舎理事 大石 章氏・東京農業大学客員教授で末裔にあたる榎本隆充氏・作家 佐々木 譲氏)、仮装コンテストや維新パレード、関係者の交流会、文学展や書道展、記念誌発行など多彩な行事によって、榎本の功績を讃え顕彰しました。

小樽武揚祭実行委員会
 2009(平成21)年には、前述の実行委員会が解散した後を受け、若者たちによる小樽武揚祭実行委員会(委員長:太田 剛)が組織され、榎本の志を小樽のまちづくりに活かしていく運動が始まりました。
 コンテストやパレードを継承するかたわら、榎本ゆかりの地図を発行、また、「榎本武揚の志へ」と題したシンポジウムを開催し、榎本の志を今の小樽にどう活かしていくかを熱く議論しました。

榎本武揚銅像建立
 榎本ゆかりの龍宮神社が核となり、榎本武揚没後100年事業小樽実行委員会や小樽武揚祭実行委員会はじめ多くの協力者により、境内に榎本武揚の銅像が建立され、2009(平成21)年6月20日除幕式が執り行われました。

まちづくりと榎本武揚
 北海道には近代以後、のちに著名となる人々が訪れていますが、特に玄関口となっていた小樽の土を踏んだ人士は大勢います。
 その中でも榎本は小樽にとって第一級の人物ですが、榎本への後世の評価は分かれるところがあります。しかし小樽のまちづくり運動において、評価は無関係といえます。榎本の小樽へのゆかりの検証や、彼の志を紐解き、そこから何かを学び、そのエキスを未来に活かすことが何より重要だからです。
 このたびの一連の榎本に関する活動において、新たな小樽ビジョンへの方向性が示されたことは、小樽にとっても小樽観光にとっても、そして、それらを担う若者たちにとっても、これほど意義あるものはないでしょう。