小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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コラム 穴場発見!!


図1
図1

水天宮から小樽公園をみる 昭和12年(小樽市総合博物館蔵)
水天宮から小樽公園をみる 昭和12年(小樽市総合博物館蔵)
よく考えれば不思議な構図
 世界でも珍しい構造の街区が小樽にあります。水天宮と小樽公園を結ぶ公園通りは花園地区をはさんで高台になっており、これをお椀に例えるなら、公園通りの石灯籠あたりがお椀の底です。一方、寿司屋通りと入船通りを結ぶ職人坂は、その石灯籠を頂点とした放物線を描いています。すりばち状の公園通りと放物線の職人坂、その2つの通りが石灯籠あたりで十字に交差する。その地形はまるで上向きと下向きのお椀を重ねたような構図となっているのです。
 ここに立って南は小樽公園の丘(桜ヶ丘)、北は水天宮の丘、東は入船の谷、西は於古発の谷という具合です。ひっくり返したお椀の曲線に沿って上にまともなお椀が立っている構図です。(図1)

公園通りから水天宮をみる 大正後期(小樽市総合博物館蔵)
公園通りから水天宮をみる 大正後期(小樽市総合博物館蔵)
街区の形成過程
■職人坂
 1882(明治15)年以後に山田吉兵衛は道路を私費で開削しています。この通りがお椀をひっくり返した地形でつくられました。通称「職人坂」。命名は戦後です。


■公園通り
1.花園橋
 次に公園通りを辿ると、鉄道(函館本線)をまたいで架かっている花園橋は、1897(明治30)年より前からあったようです。

2.神社・寺院・教会
 本妙寺は1904(明治37)年に前身の日宗倶楽部を建立、翌年水天宮が水天宮山上西北隅へ移動、小樽聖公会が同41年に建てられています。そして大正に入り8年水天宮本殿建設、同9年石灯籠、同年大鳥居建柱式挙行、お寺や教会の前身が建てられた後に、水天宮の本殿や灯籠や鳥居が整備されています。

3.小樽公園
 小樽公園は1910(明治43)年に長岡安平の設計により完成します。

4.樽僑城下町(水天宮の丘) 
 明治から昭和初期にかけて小樽の黄金時代を築いた小樽商人たちが、水天宮の丘周辺に自宅を建てはじめます。小豆将軍の異名をとる高橋直治邸が大正元年、この建物は後に寿原外吉に売却し現在旧寿原邸、板谷宮吉邸は1927(昭和2)年完成、その他名取高三郎邸なども水天宮丘の海側にありました。

ファンタジックな見方
 地形に人々が惹きつけられるかのようなファンタジックな、またある種の磁気がそこに宿っているのではというスピリチャルな謎がそこに存在するのかもしれません。
 たとえば「ローマの七丘」という伝説は、丘が神話・宗教・政治に重要だとされています。小樽にも七丘(社ヶ台、潮見ヶ丘、桜ヶ丘、旭ヶ丘、水天宮、石山、手宮公園)があると仮定すると、その中の2つ(桜ヶ丘と水天宮)に該当、だから神も仏も宿り、邪気を鎮める神社、懺悔のできる教会、信心を求める寺が俗界に鎮座し、資金力も政治力もある名だたる商人が居を構えたと想像、さらに今でこそ地下鉄は当たり前ですが、大衆を乗せて走る汽車を見下ろす構造もその威厳ではとこじつけたくなります。

冷めた見方
 そもそも平坦地の少ない地形を必要に応じて切り開いてきたまでのことで、歴史の必然性と合理性の結果です。山田吉兵衛が海岸線の堺町に建ちはじめた卸問屋街から色内方面に向けて道路を掘削したのは、海岸線に造るより安全であったから、神社では鎮守の森、寺院では山号寺号というように、神社・寺院は丘に建てる傾向があったから、大きな公園を森に造るのも黒田清隆が先進国の事例を小樽に勧めたから、商人が水天宮の丘に居を構えたのは出船入船が業務の重要事項だったからです。さらに1880(明治13)年に鉄道が敷かれ、1882(明治15)年に山田吉兵衛がつくった街区に人々が住み始め、1897(明治30)年に花園橋が計画されたから、汽車を見下ろさざるを得ない…といわれそうです。


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<小樽聖公会宣教百二十年の歩み>
<小樽市歴史的建造物一覧>
<小樽建築探訪>

花園橋 明治後期(村住家蔵)
花園橋 明治後期(村住家蔵)

小樽公園から水天宮をみる 明治後期〜大正(村住家蔵)
小樽公園から水天宮をみる 明治後期〜大正(村住家蔵)

水天宮近くの板谷邸から海をみる 明治30年代(奥山家蔵)
水天宮近くの板谷邸から海をみる 明治30年代(奥山家蔵)