小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり観光(14) まちづくり運動と観光

地域間交流
現代版北前船プロジェクト
実行委員長 眞田 俊一 氏(小樽観光協会 会長)
http://kitamaebune.com/


明楽みゆき 氏(現代版北前船プロジェクト副実行委員長)
明楽みゆき 氏(現代版北前船プロジェクト副実行委員長)

現代版北前船プロジェクトロゴマーク
現代版北前船プロジェクトロゴマーク

北前船
 北前船は江戸時代後期から明治時代にかけて北海道と本州の日本海側各地や大阪との物資輸送に活躍しました。基本的に1年に1航海で、途中の寄港地で商売をしながら往復し、船主は大きな利益を上げました。
 小樽近海では、忍路や余市・寿都などにも寄港しています。明治時代になって政府により海運の近代化が進められスピードの速い西洋型帆船や汽船が登場すると、次第に北前船は勢いを失っていきます。また、途中で商売をしながら往復するという手法も時代に合わなくなり、『小樽港史』によれば、小樽港では1880(明治13)年の汽船入港数が160(186隻の誤記か?)隻、和船(おもに北前船)5,040艘と圧倒的だったのが、10年後には汽船248隻に対し、和船は203艘と逆転、『小樽市史第1巻』にも、明治15年までは和船が増加しているが、その後は著しく減少したとあります。
 それでも、明治時代は小樽と本州を結ぶ大量輸送の一翼を担った存在ではありました。

潜在
 京都出身札幌在住のチェンバロ奏者である明楽みゆき氏の五代前のご先祖は、近江の北前船主でした。北海道の鰊や昆布を京都に卸し、多大な食文化を派生させてきた北前船や北海道への感謝が、明楽氏の心の片隅にいつもありました。
 自らが奏でるチェンバロを通じて、地域と地域の交流が活性化できないかと考え、歴史的に北前船の恩恵を受けた小樽に立ち寄りました。

発案
 明楽氏が立ち寄った先は「小樽歴史館」を運営する簑谷 修社長でした。簑谷氏は小樽の仲間に声をかけ、10人程が集います。その席で、明楽氏からの問いかけを契機として、「北前船のエッセンスを未来に生かそう」と発案されます。そして「北前船のエッセンスは航路となっている様々な地域に産業を根付かせ、買う方も売る方も潤ったということ」が確認され、それを現代に当てはめると、「地域間交流」ではないかと問題提起がなされます。
 これまで地域間交流は主に物産展などが主流でしたが、アートや食文化や観光文化をからめた「全人格的な交流」ではありませんでした。「地域間のそんな交流を促進することで、持続可能な経済的利益が生み出される、またそこにはアートや食文化や観光文化も磨かれていく、もちろんその中には全国的にブレイクする商品や文化が生まれる可能性もある、基本的に内需喚起だが外需誘導ともなろう」そんな展望が生まれてきたのです。

中央集権と地方主権
 戦後の日本経済の輸出型産業を頂点としたピラミッド型が、各地域の中小企業にも波及し、地域経済も輸出型産業に直結する構造になってきました。
 同時に就業人口は仕事を求めて都市圏へ移住し、日本の人口の約半分は、東京・大阪・名古屋周辺に居を構えるという、行きすぎた人口集中をつくりました。
 しかし、輸出型が下降線となった現代、どんな経済秩序がいいか問われています。もちろん輸出がなくなるわけではないので、その方向は磨かれていくでしょうが、新たな対案があっても不思議ではありません。
 現代版北前船は多くの地域間交流のスクランブルを願っています。地域は国内・国外を問いません。輸出もあれば輸入もあり、アウトバウンドがあればインバウンドもあります。

増田利兵衛 明楽みゆき氏所蔵古文書より
 明楽氏のご先祖の増田利兵衛は天保元(1830)年、近江国愛知郡嶋川村に生まれました。
 弘化元(1844)年、竹籠を商い、翌年麻かすりに転じ、嘉永2(1849)年木綿呉服商、万延元(1860)年住吉丸の船持ちとなり、文久2(1862)年磯谷・岩内へ回航、同秋江差港にて、明治元年には若狭沖にて嵐に遭うも無事帰港。蒸気船出現と共に北前船を売却。村に社殿を寄進の後、京都にて呉服商を営む、明治17(1884)年死去。