小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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地域資源活用ビジネス(16) 小樽独自のビジネスモデル

ガラスブランド
株式会社 ザ・グラス スタジオ イン オタル
代表取締役 浅原千代治 氏
〒047-0023 小樽市最上2-16-16
TEL(0134)33-9390
FAX(0134)33-9391
http://glassstudio-otaru.com


株式会社 ザ・グラス スタジオ イン オタル 浅原千代治 氏
株式会社 ザ・グラス スタジオ イン オタル 浅原千代治 氏

小樽とガラス
 北海道の開拓時代におけるガラス生産の歴史は灯りや器などの需要から始まります。この背景から明治後期、小樽に灯りの需要を満たすランプのための生産現場ができます。そしてもう一つ、当時はニシン漁が盛んで、網の位置を知らせる浮き玉としてガラスが使われていきます。
 窓ガラスに使用される板ガラスの生産は旭硝子が明治40年に創立され、同42年以後に市場に国産ガラスとして登場します。例えば明治39年に建てられた旧日本郵船小樽支店に使われた窓ガラスは輸入品です。
 つまり硝子は旭硝子のように機械化で大量生産の方向と、小樽のように手づくり生産の方向とに別れるので、小樽のガラスはランプや浮き玉のような小口生産のための手づくりガラスの生産現場を持っていたということになります。

来樽
 1970年代に大阪市大淀区(当時)で三友硝子工芸株式会社の常務だった浅原千代治氏は、今後の手づくりガラスの方向は集約された大型化か作品志向の小型化でなければ生き残れないと考えました。そこにガラスの仕入で小樽の竃k一硝子社長 浅原健蔵氏が訪れ、これがきっかけで千代治氏が描いていた生き残る手づくりガラスの新天地を小樽に定めることになりました。

設立
 1979(昭和54)年、5人の職人仲間を引き連れて来樽、グラススタジオを設立します。当時、小樽で手づくりガラスを営んでいたのは、天神町の浅原硝子製造所 浅原陽治氏と緑町のミナト産業の川口義雄氏でした。しかし当時200カイリ問題で漁業に大打撃が加えられ、浮き玉の注文も激減していたことから、休業状態となっていたミナト産業の工場をグラススタジオが借りることになります。

天狗山に工房
 1876(明治9)年大阪生まれの浅原久吉氏は師匠であり義父の島本芳次郎氏と1890(明治23)年に渡道し、函館で島本ガラス工場を開設、明治33年に小樽に移転し浅原硝子製造所を設立し天神町に移ったのが1933(昭和8)年です。
<北海道新聞昭和25年6月>
 ガラスの浮き玉を考案した浅原久吉氏は事業を拡大、1940(昭和15)年浅原グループは製造部門と販売部門に分離独立し、製造部門は浅原硝子製造所の陽治氏が、販売部門は北一硝子の健蔵氏に継承されていくのです。したがって久吉氏の孫が陽治氏で、陽治氏と健蔵氏は親戚関係にあたります。千代治氏も偶然にも浅原姓ですが全くの他人です。

三人の浅原氏
 千代治氏は1986(昭和61)年3月3日3時3分3秒に天狗山の麓に工房を新築開設し、以後、製品や独自の作品づくりに専念していきます。このように、まず浅原久吉氏が小樽で自ら考案したガラスの浮き玉市場を創造し、その伝統を陽治氏が継承し、新たな販売形態を健蔵氏が創造し、千代治氏が手づくり技術を斬新なデザイン力で作品に昇華するという機能分担がなされていきます。そしてこれらの苦労が、現在の小樽のガラスブランドを形成してきました。

地域資源
 現在の小樽には12軒<アートクリエイト「蔵」調べ>の工房と27軒の店舗<2009年発行タウンページ>が活躍しています。30年前には2軒の工房しかありませんでした。「小樽のガラス」は既に産業・観光資源となり、いまやブランド化してアジアにまで浸透しはじめています。

作品出品
 浅原千代治氏は精力的に作品を出品してきました。1975年神奈川県立美術館、1978年京都国立近代美術館、同年京都市立美術館、そして北海道立近代美術館、ニューヨークヘラーギャラリー、札幌芸術の森、箱根彫刻の森美術館、チェコ・プラハ美術館などに出品、天皇陛下「源氏物語」、皇太子殿下「平安の雅」、秋篠宮殿下「桜華」などが所蔵され、ロシア美術館・トレドガラス美術館・京都国立美術館・ルイジアナ美術館・コーニング美術館などにも所蔵されています。

浅原千代治作品
浅原千代治作品