小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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コラム

港町気質



海がないこと
 私たちは港を産業、スポーツ、レジャー、あるいは景観として、ごく当たり前に活用していますが、港がないまちの人々にとって、それはまさに異国そのものです。
 たとえば海のない街の生活風景の中では、心を癒す青い景観もなく、夏に見る白いヨットやクルーザーに解放感を抱くこともなく、石造りの倉庫街や歴史的建造物の街並みを歩くような浪漫感を得ず、大型客船の寄港に度肝を抜くような驚きもなく、大漁旗に彩られて凱旋する漁船の活気も知らず、新鮮な海産物を普通に食べる日常もなく、真っ黒に日焼けして海で遊ぶこともできません。
 とすれば、海のある環境に暮らす私たちは、そうでない町に暮らす人々とは異なる幸せを確実に持っているのです。
 しかし当たり前過ぎて大事なことを忘れてもいます。この稿はその大事なものを思い起こす一助になればという想いで書きました。

小樽と海
 小樽が活性化してきた歴史を調べるとき、一貫して海の恩恵がそこにあることに気が付きます。
 ニシンはじめウニ・ホタテ・ホッケという海産資源、北前船はじめ・帆船・蒸気船・フェリー・大型客船という海運手段、運河や埠頭や防波堤などの港湾施設、巨万の富を築き今日歴史的建造物といわれる建築物を建てた小樽商人たちの海運拠点、そして埋立型で湾曲した運河が観光のシンボルなどとなっています。
 さらに食品関連に従事する人口が製造業従事者の約半分に該当し、その中でも水産加工業が重要な基幹産業となり、いっぽう水産以外でも餅・小豆・小麦粉などが豊かなのは港の交易が盛んだった故です。こういった背景から寿司や菓子などの食文化が成熟してきました。

港町と都市
 日本は17世紀前半の江戸時代初期に、貿易の窓口は長崎〜西欧・清、対馬〜朝鮮、薩摩〜琉球〜清・東南アジア、松前〜アイヌ〜北東アジアに限定され、鎖国体制が敷かれ、あたかも農本主義の歴史を私たちは学んできましたが、実は中世から海岸線で生きてきた人々は、漁撈・廻船・商業への進化を遂げ、土地や領土意識に執着しない自由で合理的なライフスタイルを確立してきた事実(ここが小樽的)が明らかになっています。いわゆる「海民」と呼ばれる人々です。ところが徳川幕府が年貢徴収の管理をしやすくするために農本主義で管理し、それを徹底するために儒教でてなずけたことから、体制側の歴史のみがクローズアップされてきたようです。
 このように「海民」の展開から、海を生業の場とするところに「市」が形成され、海岸沿いの狭さから溢れて広い平地の都市に人々が集住してきました。つまり港町が都市に進化したことになります。
<参考『海民と日本社会』網野善彦>

港町気質
 仮に港町と都市を比較すれば、歴史的に港町は文化の交差路で、素朴な文化が磨かれて実や花として流通し分明となり、一方都市はその文明の調和ともいえます。しかし現在は船のみが交通手段ではなく自動車や飛行機もあって、港町が元来蓄積してきた機能を都市に奪われています。
 文化の交差路では様々な摩擦が生じます。常識も習慣もマナーも違う人々の交差路ですから当然です。したがってキカナイ気質が鍛えられます。それと符合するかのように、海産物には野菜や肉や穀物より塩分が多く含まれており、塩分は元気の元というのもうなずけ、はたまた日本のヤクザや海外のマフィアの発祥も港町というのも偶然ではない気がします。
 港町は「新しいものを何の躊躇いもなく受け入れ実や花を咲かせる」気質がありました。都市はそのイイトコドリでコーディネートされますので、起源知らずの受容、過程なき調和で膨張してきました。この方程式が現在崩れ、港町の多くが鄙となり、リスクを嫌う保身的な沈黙者となっています。

ウエルカム・ニュー
 感覚的でも軽薄でも良く、廃れる流行りでも過ぎ去る風でもいいのです。もっともっと新たなものを構えずに受け入れる度量と思想と装置が必要です。港町には摩擦を濾過する機能が潜在しています。今こそ大雑把で荒削りで大胆な解決手段を見いだし、友好的な関係からまちづくりを進める必要を感じます。かつて「海民」たちが国際関係の裏で民際関係を結び、たとえば倭寇が「国家領域をまたいで成立した」ように、領土意識や歴史的怨恨に執着しない国際関係を築けたらと思います。