小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(8) 他の地域との比較から小樽の輪郭を探る

余市と小樽


余市から見て
 余市から見ると、小樽ではあるが「高島から余市に感じる」といいます。それは小樽の中心部が漁業に加えて商業で大きく発展したのに対し、高島・祝津を含めて余市は漁業で維持してきたという産業形態の違いが民族的に映るのでしょう。

高島・祝津の意識
 一方、高島・祝津民族自身は、「小樽さ行っでぐる」と今日でもお年寄りがいうように、余市でも小樽でもない一本ドッコのスピリッツが脈打っています。

見切りとこだわり
 余市も小樽も江戸時代から上ヨイチ場所・下ヨイチ場所・ヲタルナイ場所・タカシマ場所といわれてニシンを資源に集落が形成されてきましたが、大正後期からニシンの群来が不安定になり、先行投資の必要なニシン漁獲には大きなリスクが伴ってきます。
 小樽のニシン漁家は「もうこないべ」と見切りをつけ、追鰊で北の漁場確保に動くか、蓄積した財で商業に拡張するかの決断が早いのです。

<因みに小樽商人は鰊を追って、藤山要吉は道北へ、板谷宮吉・木村圓吉・田中武左衛門は浜益へ、金子元三郎・渡辺兵四郎・山本久右衛門は北の離島へ、岡崎謙・井尻静蔵は厚田・石狩へ、広谷順吉・猪股孫八は宗谷へ進出しています。>

 一方余市の漁家は、たとえば福原漁場の福原才七なども北方へ出かけた経緯は確認されますが、そこで財を成した形跡がありません。むしろ多くは「まだくるべ」と余市にこだわって「ブカタ」というリスク回避の手法を編み出します。

商人気質
 「高島・祝津も余市」観は、漁家建築の遺構が多く残っているという現在の結果からの印象であり、逆に祝津御三家の白鳥は枝幸・浜益進出のほか小樽中心部で商いにも進出、青山は高島・雄冬に進出、茨木は高島・増毛進出のほか手稲・比布に農業で進出していますので、商人気質は十分検証できます。
<『茨木家寄贈資料目録』 北海道開拓記念館 昭和47年3月31日>

小樽と利尻・礼文
 小樽に利礼資材有限会社という会社があります。戦後に設立していますが、これは小樽の廻船業が盛んに利尻・礼文に物資を運んでいた背景から必要な物資を調達する会社として誕生し、小樽市民の中にも利尻・礼文出身者が数多くいます。
 こういう関係から、小樽は隣の余市より離れた利尻・礼文との関係が濃密といえます。いずれにしても産業形態によって気質や関係の深さが育まれていることが明確です。