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食品
あんかけ焼きそば


桂苑のあんかけ焼きそば
桂苑のあんかけ焼きそば

あんかけ焼きそば
 全国的に「焼きそば(炒麺)」というと「ソース焼きそば」をいいますが、北海道では一般的となった「あんかけ焼きそば(野菜・肉・海鮮・うずらの卵などを炒めてあんかけにしたもの)」の普及に一役かったのはどうやら小樽のようです。

検証
■小樽の定番

 『北海道中華調理師会小樽支部20周年記念誌』では、昭和37年5月17日丸井小樽支店において、支部主催で、梅月の林 友星氏、新松島の志村常雄氏の指導によって「炒麺」の料理講習会が開催された記録が掲載されています。つまりこの時期の小樽では「炒麺」は既に、中華料理の定番となっていることがうかがえます。

■小樽の中華料理

 さらに遡ってみると、昭和13年に北海道中華調理師会小樽支部が設立されますが、当時を振り返った回想記で、伊藤貞義氏が「昭和13年、中央ホテルが新増築し、新たに中華を加えて、和・洋・中の三部門となり、中華部長として迎えられたのが近藤庫之助氏である。(中略)これで大丈夫だ、北海ホテルなんかに負けるものかと抱き合って喜んだものだった」と記されています。
 これには解説が必要で、昭和13年当時の北海ホテル(大正7年開業、現・北日本石油と商大ゆめぽーとのところ)と中央ホテル(昭和3年開業、旧ハーバーライト・みなとホテル)は小樽のホテルの双璧でした。この当時ホテルに「和・洋・中」の料理がラインナップするということは先進的かつ画期的な出来事だったのです。事実上「これが非常な評判をよび、中央ホテルの黄金時代をつくった」ようです。


■近藤章司と梅月

 ここに名前が登場する「近藤庫之助」ですが、「近藤章司」と改名、この近藤氏(昭和13年26歳)が小樽における中華料理の最初の調理師となります。近藤氏は「昭和22年、中央ホテルを円満退社し、割烹・梅月を買収、翌年中華料理専門店を開業」とあります。さらに梅月なる料理屋は「昭和9年3月23日 稲穂町東4-11の梅月焼失<小樽歴史年表>」とあり、この場所は中央通りより余市側(竜宮神社下あたり)ですので、恐らく同じ場所に再建されていた梅月を買収されたと思われます。
 近藤氏が引き継いだ梅月は、昭和32年静屋通りに移転し9月18日に大衆中華食堂「梅月」として開業します。
 近藤氏は小樽大衆食堂の草分け、さらに全日本中華調理師会「白石会」にも所属し小樽の組織創立の立役者であったことがうかがえます。

梅月開業当時
 梅月が静屋通りに開業した昭和32年の小樽市の人口は194,308人で、翌年に塩谷村と合併し203,486人となります。さらに外食も一般的となりつつありました。
 こういう背景から考えて近藤氏が中華の中で気軽に食べられる人気メニューを開発しようとするのは自然と思われます。事実梅月の立地は小樽繁華街の駅前と都通りの真ん中にあり、人気メニューとして「あんかけ焼きそば」は買い物の際に立ち寄る市民で繁盛します。
 そしてあんかけ焼きそばは静屋通りにオープンした時には既に入っていたといわれていますので、近藤氏が中央ホテルに入った昭和13年から静屋通りオープンの昭和32年までの間に、練られあるいはメニュー化されていたというところまではつきとめられます。

あんかけ焼きそば運動
 小樽では既にあんかけ焼きそばは、中華料理店のほとんどや、ラーメン専門店の一部、あるいは軽食を扱う喫茶店でメニューに組み込まれています。
 株式会社 兼正 阿部製麺 専務 阿部恭久氏と新日本海物産株式会社の高田裕章氏が事実上の発起人となり、小樽の寿司以外の定番としてあんかけ焼きそばのバージョンアップならびに豊かなバリエーションに向けて組織づくりや運動展開の検討をはじめています。


<北海道中華調理師会小樽支部20周年記念誌>
<小樽歴史年表>
<小樽市統計>