小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalw分野(1) 様々な観光「印探索」

分野(1) 様々な観光「印探索」

スタディ・ツーリズム
ユニークな形で教育を観光に取入れた
小樽教育旅行誘致促進委員会



学ぶ
 小樽には石蔵や暖簾や看板などに「印」が掲げられているお店が数多くあります。印の系譜や小樽に印が多い背景を学び、実際にそれらを探索してその「読み」や「由来」を学びます。

創る
 印は自分を表します。かつては名前や仕事からそれを考案していました。そこには経営理念や姿勢や将来の夢などが盛り込まれている場合もよくあります。
 自分を表すには自分を見つめ、探すことから始まります。名前や出身地、職業や家族、夢や信条などといった切り口から、自分が最も重要だと考えるものを抽出します。それを「言葉」や「絵」にして、さらにデザイン的に考案するプロセスです。
 できた作品には○×も点数も合否もつきません。自由に楽しんで自分を探してください。

修学旅行生による印探索
修学旅行生による印探索
印の目的
 マークはそもそも「家」や「組織」を表すために視覚に訴える道具として生まれました。なぜ、そういうものをつくったかというと、最初は「判別」が目的でした。それが公家や武家なら「権威」のシンボルとなり、町民や農民なら「信用」のシンボルとなっていきます。


印の使用
 日本での印の起こりは「家紋」として公家から始まりました。乗り物
や衣服などに飾られ、武家が誕生する鎌倉期には武家も家紋をかかげ、戦国期には大小様々な武家の印が馬印・旗印・紋服などに広く使われていきます。江戸時代には、歌舞伎・能・狂言などの家元にも芸能紋として普及し、町民も道具・玩具・菓子などに定紋を付していき、遊廓の娼妓にも普及し、その人気番付の「明和伎鑑」などが発行されています。また地域の武家は農民と契約を交わす公文書に「組紋」を押印させ、農民組織を印で囲い込みました。その他に町の「町紋」などもありました。
<歴史読本 日本紋章総覧 家紋の知識一〇〇>

商人の印
 江戸時代では商人には名字が許されていなかったので、「信用」を重んじるためになんらかの印を必要としました。そもそも家紋は公家や武士が主流で、自然を絵柄にして図案化したものが多くありましたが、江戸時代には徳川家の「葵」以外なら自由につけてもいいという風習の中で、公武が好んだ絵柄を遠慮して「文字紋」の領域にその自由さが発揮され、  「マルイ」  「カネイ」  「ヤマタカ」のような印が多用されてきたようです。

小樽と印
 小樽に最初に印を持ち込んだのは弁財船を使用して交易を行った近江商人だったでしょう。その後、加越能商人が北前船で寄港した際に、「帆印」の記録が残っています。さらに松前商人や越後商人などが盛んに活躍していき、同時に印も一般化していきます。
 石橋彦三郎は  「マルヨ」で、野口家(北の誉)に暖簾分けされています。小樽の大地主だった木村圓吉は
「ヤマシメ」、北前船主の大家七平は  「ヤマシチ」、寿原一族の元祖の弥平次は  「イチマル」、海産物商の井尻静蔵は  「ヤマオウ」、電話の一番を取得した名取高三郎は   「マルジョウイチ」、現在のうめやスポーツの始祖村住三右衛門は  「ヤマサン」、田中酒造は  「カネイ」など、ほとんどの商人は自社の印を掲げていました。
 このように商業で栄えた小樽には、様々な印がたくさんあり、これらは小樽の商業文化と位置づけることができるでしょう。