小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり観光(1) 小樽のまちづくり運動と観光

小樽観光の経緯
小樽独自の経緯と小樽独自の観光


小樽運河報道
小樽運河報道

北一硝子三号館
北一硝子三号館

需要 〜高度経済成長〜
 昭和30(1955)年代から昭和48(1973)年までの日本の高度経済成長は「アジアの奇跡」と称され、その結果、1970(昭和45)年代〜1980(昭和55)年代に「一億層中流」と日本人自らが意識するようになります。マイホーム・自家用車・家庭電化製品に手が届く経済力を身につけ、さらに余剰の小金を持つようになったことで、「安く近く短期間の旅行」ニーズが醸成されてきました。

供給 〜再発見の旅〜
 日本国有鉄道が1970(昭和45)年から始めた「ディスカバージャパン」キャンペーンは、「日本を再発見し自分自身を再発見する」ことを目的として「安近短旅行」を供給しました。また、テレビ番組や女性雑誌などで需要が喚起され、倉敷・萩・妻籠・馬籠といった特徴のある地域にアンノン族や小グループの女性客が大勢繰り出すという潮流が生まれました。

運河保存運動 報道
 1966(昭和41)年の道道小樽臨港線計画発表から、1986(昭和61)年の運河散策路竣工までの20年間に、数え切れないほどのマスコミ報道が流されました。
 北海道新聞では、1975(昭和50)年2月〜1986(昭和61)年10月に全道版で、記事398本、社説14本。市内版ではこの4〜5倍。他紙もこれに追随します。その他にテレビ、ラジオ、イベント、シンポジウム、出版などで小樽の運河保存運動は繰り返し全国に報じられたので、「一度、小樽の運河を見に行こう」という需要をかきたてるのに十分でした。
 つまり「需要としてコンパクトな旅行なら行ける国民が多数生まれ、供給としてコンパクトな移動アクセスが整備されたり旅行プログラムが企画されたりするなか、盛んに小樽運河報道がささりこんでいった」ために、現在に至る小樽観光ブームが巻き起こったといえます。

小樽観光の準備
 小樽運河論争が1984(昭和59)年の政治的決着を経て、1986(昭和61)年に小樽運河散策路が整備され63基のガス燈が灯る頃には、大型バスで多くの観光客が運河周辺を散策する風景が一般的になりますが、すでに1983(昭和58)年にオープンした「北一硝子三号館」には多くの観光客が訪れるようになっていました。
 それは稲穂1丁目の北一硝子旧店舗で、「馬橇にランプ」をディスプレーしていた風景が、「an.an」や「non-no」などの女性雑誌に紹介されたことや、1976(昭和51)年に放映された倉本聡原作の「幻の街」から、「小樽=レトロ」というイメージが醸成されたことなどが相乗効果となり、高度経済成長で疲れた人々に共感を与えたためです。小樽に数多くある特徴的な建造物である木骨石造倉庫を利用して、ランプと手づくり硝子の店舗を創造したことは、ビジネスモデルとしても商品開発としても観光としても画期的なことでした。

まちづくり観光
 このように小樽観光は、小樽運河保存運動を先駆けとした多くのまちづくり運動と、北一硝子をはしりとした多くの民間企業の努力とが有機的にからみあって、小樽をゆるぎない全国有数の観光都市にしていきました。
 次号から、小樽運河保存運動以後に繰り広げられた様々なまちづくり運動と、今日に至る観光との有機的な関係を紐解いていきます。